もし『今』しかなければ、時間はどのように認識されるのでしょうか?
僕は過去の記事で、時間は存在しないと書きました。少なくとも時間の流れは存在せず、ただ今という状態だけがあるというものです。つまり、長さをともなうものが時間の概念なら、時間は存在しないということです。と、ここまでの短い文章でも『過去』という言葉が出てきていますし、文章自体が時間経過の上に成り立っています。まったくもって矛盾したことを言っていると思われても仕方ないと思います。
ただ、僕の言う『時間は存在しない』という事実は、悟りの状態に限定されます。限定されると言う以上、それが例外的で特殊な状況かと思われるでしょうが、それも違います。それは、より本質的な状況なのです。逆に、時間が流れているように感じる状況、僕達が暮らす日常という現象世界の方が、少なくとも二次的です。せっかくなので、それらの世界をもう少し説明したいと思います。
二元性の世界と非二元の世界での時間
先ず、僕達の暮らす日常という現象世界ですが、これはあらゆる事象が相反する対極を持つ、二元性の世界です。実のところ、この世界で二元性を持たないものはありません。例えば、男と女、善と悪、有と無、主体と客体、始まりと終わり、個と全、生と死などです。果たして、固有のものはどうかと思われるかも知れません。例えば『A』という固有名詞があったとします。それは固有なのだから、対立する存在を持たないではないかと思われるかも知れません。しかし実の所は、『A』が存在することによって、『A以外のもの』という相対的概念が存在してしまうことになるのです。繰り返しますが、つまりあらゆるものが、対立する概念を持つことになります。
それではもう一つの世界、僕が悟りの状態と書いた世界ではどうでしょうか。それはこのブログでも何度かご紹介した、梵我一如や不二一元論の指し示す世界です。ここでは状態や世界と書いていますが、あくまでも、言葉を使ってどう表現するかという問題であって所詮はすべて象徴表現に過ぎないことをお断りしておきます。
梵我一如と不二一元論に関しては、これまでも多くの記事で伝えています。ただ、この記事で初めて眼にする方のために簡単に説明していきます。梵我一如とは、我と梵は同一であるという思想です。我とは個我や自我のことでアートマンと言い、梵とはブラフマンのことで、宇宙を支配する原理のことを指します。これら二つのものが一つになった状態が、悟りの状態と言えると思います。
不二一元論は、相対的な価値を持つ二つのものはなく、実は一つであるということを意味しす。二つのものとは、前途した男と女、有と無、主体と客体、始まりと終わり、個と全など、あらゆる二元性を表し、その中には梵と我という梵我一如の要素を含みます。そして、これらの相対関係が一つになることを、不二一元論は指し示しています。

つまり、梵我一如と不二一元論は同一の概念なのです。ただ、違う言葉が使われている以上若干の違いがあります。梵我一如のほうが時代的には古いので、不二一元論は梵我一如の表現の違いか、アップグレードと言った感じでしょうか。個人的には、梵我一如が、悟りを経験する主体としての我と客体としての梵の関係に限定的であるのに対し、不二一元論の方が相反する二つのものの関係にまで、言及する対象が拡大している印象を受けます。ただ、相反する二つのものの中には我と梵、つまり認識における主体と客体も含まれていますので、それらは若干方向性が違うだけで、同一のものを指していると言えると思います。
今回は認識における主体と客体の観点から、時間は存在しないということを見ていきたいと思います。
時間は川の流れのように
時間の流れは、しばしば川の流れに喩えられます。時間の流れは過去から未来へ、川の流れは上流から下流へ、共に一方向に流れているように見えるからです。それでは何故、川は上流から下流へと流れ、時間は過去から未来へと流れるのでしょうか。重力があるから? エントロピー増大の法則によって? おそらくそれはそうなのでしょう。ただ、そうだとしても、決定的に見落とされていることがあります。それは、主体と客体が分離しているということです。川の流れを例に上げながら、もう少し具体的に説明していきたいと思います。ここからは例え話になります。さらに、複数のイメージの間を行き来してもらうことになりますので、気楽な気持ちで読んでください。
通常、僕たちが川を眺める時、認識する主体と、認識される客体は分離された状態にあります。つまり、川を眺める私と、眺められる川は分離している状態なのです。川岸に座って、川の流れを眺めている様子を思い浮かべてみて下さい。それが、我と梵、主体と客体が分離している二元の状態です。つまり、あなたが日常生活で感じている状態です。確かにその状態では、川は目の前を川上から川下に向かって流れていくように見えます。

それでは、梵我一如、不二一元論、悟りの状態を、川の流れとそれを眺める人に例えるとどうなるでしょうか。その状態で、見詰めるものと見詰められるものという二つのものは、一つになっているのです。つまり、川の流れと、それを眺めるものとは同一です。川を流れる水自体が、それを眺める者であると言うか、眺めているもの自体が川なのです。
もしイメージし易いなら、浮き輪を付け流れに任せて流されながら、流れる川を眺めている様子を想い浮かべてください。あなたの周囲の水は、あなたと一緒に移動しているのですから、あなたの周囲にあるだけです。そこにあなたを置いてけぼりにして、先に流れ去る水はありません。水は常に周囲にあり、止まっている状態です。水があったとか、水があるだろうと言う状態はなく、水はそこにあるのです。
それでも、川には上流も下流も存在していると思う人も居るかも知れません。確かに、流れていないにしろ、川には上流と下流があり、それは未来と過去に相当したはずです。しかし、ここでもう一度思い出してもらいたいのです。悟りの状態において主体と客体は同一です。つまり、流れる川自体が、それを認識する主体なのです。川のあらゆる部分で、水は周囲にあるだけです。つまり、上流から下流までのすべてが、唯一今あるのです。
錯覚としての時間の中で
これが梵我一如、不二一元論、悟りの観点から見た、時間の感覚になります。そして、この状態が本質であり本来の姿なのですから、時間が流れているという感覚の方が錯覚であるということになります。何故、こちらの方が本質的なのかということを少し説明しておきます。
今度は、あなた自身をイメージして下さい。あなた自身を、主体と客体という二つのものに分離することは可能なのでしょうか? 無論、そんなことは無理なのです。認識する主体であろうと、認識される客体であろうと、あなたはあなたであり唯一無二の存在でなくてはなりません。しかし、実際は主体と客体という二つのものに分離されてしまっているのが現実です。あなたは、あなたという認識主体であり、かつあなたに認識される客体なのです。そして、その間は意識という間接作用が挟まり、分離されてしまっているのです。つまり、流れる川と川縁に腰掛けてそれを眺める関係性と同じです。この二つのものへの分離が、自己に対する不確実性、ないしは存在の希薄感を生み出しているのだと思います。
少し話がずれてしまったかも知れませんが、認識における主体と客体は、本来二つではなく一つであるべきなのです。
つまり、梵我一如や不二一元論に示される悟りのような状態において、つまり究極的、ないしは本質的状況において、上流から下流に流れる川のすべてが、いま存在しているという状態にあるのです。川という象徴的表現を排して語るなら、あらゆる今が唯一存在しています。
今しかない状態で、時間はどう認識されるのか?
それでは、それらの知識を踏まえて、悟りと呼ばれる経験をした人達が時間をどのように感じるのかを考えてみます。ただ、そのような経験は永続的に起こる訳ではないのです。多くの人が一瞥という言葉を使うように、最もドラマチックな瞬間は、数分から数時間に限られます。その経験は一瞬で経験者の個我を書き換え、一生涯影響を与え続けますが、経験自体は長くても数時間です。
その数時間は、今在るという状態しか感じられないかも知れません。数時間と書きましたが、それすら便宜的なもので実際は時間の経過に縛られてはいないかも知れません。ただ、その体験の直後は、自分の時間感覚の変化に驚くことになるのではないでしょうか。あなたがその体験をしたとするなら、あなたは自分という存在から、時間的長さの感覚が失われていることに驚くことになるかも知れませんし、もしかしたら、その事実に怯えを感じるかも知れません。この状態が、悟りを体験した人が「時間は存在しない」とか「今しかない」と言う状況です。
しかし安心して下さい。残念ながらというべきか、その状況も永続はしません。徐々に時間の流れる世界、主体と客体の分離した世界、二元の世界に戻ってくることになります。そして、何とか騙し騙しにでも、それまでの生活にひとまずは戻ることになります。
それでは、その戻った元の世界で、時間は悟りを経験する前と同じように感じるのでしょうか? とても主観的な問題なので断言は避けますが、やはり時間は過去から未来へ流れているように感じられます。あなたは日々の雑用に追われ時間の流れが早過ぎることを嘆くでしょうし、退屈な仕事に時間が経過しないことを絶望するでしょう。ただ、やはりそれでも自己の根底において、体験の前と後で感覚は違ってしまっているのです。

過去があり、今があり、時間が経過していると感じることに変わりません。時間は流れ、畳み掛けるように今は次々と訪れます。ただ、過去が過ぎ去り、違う今が訪れる訳ではありません。過ぎ去ったあの時と同じ今が、再び訪れているだけです。何故なら、それは唯一の今であり、永遠の今なのだからです。
コメント