推し活にハマる人々・リターンズ

こころ

以前、『推し活にハマる人々』という記事で、推し活にハマる人々の心理について考えました。その記事の中で、推し活にハマる動機は、エベレストに登山しよとしていた登山家と同じではないのかと結論付けました。「なぜあなたはエベレストに登りたいのですか?」という質問に対し、「そこにそれがあるから」という答えを返したのと同じなんじゃないかと思ったのです。そう思うに至ったのは、「ただ、推しが好きだから」という友人の言葉が影響しています。登山家の言葉と、友人の言葉が同じ願望に根差していると考えたのです。もはや説明も寄せ付けないほど、純粋で根元的、つまり崇高な願望なんだなって感じたのです。

推し活の宗教性

しかしまあ、それだけでは雑過ぎるとも思っていた所、同じように推し活に付いていろいろ考えている人がいるようでした。そして、その人の意見には納得できるところも多々あるように感じました。又聞きですので出典は出せませんが、覚えている範囲で内容を書いてみます。

その人は、推し活を現代の宗教であると仰っていました。確かにそうだなと思う訳です。その人は、直接的な宗教であると仰っているのではなく、宗教が担ってきた役割を実質的に担っているのではないかと言うのです。例えば、仏教におけるお布施です。お坊さんやお寺に対して、感謝の気持ちとしてお金を払うものです。お葬式のときに「いくら払えば良いんですかね?」と聞いて、「お気持ちですから」って金額の相場を教えてくれないのはその為です。お寺にもいろいろ事情があるのでしょうが、渡しているのはお金の姿を借りた気持ちなのです。

推し活でも、渡すのはお金です。グッズやチケットを買うことによって、間接的に『推し』に対してお金を渡すのです。実際問題、推し活界隈では、『推し』に対してお金を使うことをお布施と言います。そして、自分がどれだけお布施をしたかを誇るのです。

葬式仏教が主流の日本の仏教では、税金のように無理矢理払わされているようにしか感じませんが、宗教の世界ではお布施の額を誇ることは良くあります。ミャンマーのバガン遺跡群では、裕福な信者が競って寺院を建て、仏教教団に布施していました。統一教会問題では、多額の寄付(お布施)が、家庭を崩壊させました。そのような事例は新興宗教においては珍しいことではないのかも知れません。まあ、推しのホストに貢いで破産し、さらに貢ぎ続けるために、立ちんぼをする女性のようなものです。

その『お気持ち』とは何か?

お気持ちは暴走しがちですが、そこに『お気持ち』があることは間違いありません。ご利益や徳を積めるとかの文句で煽っていることは間違いないですが、先ずは『お気持ち』があるのだと思います。そのお気持ちとは何なのでしょう。

知人に、保護猫の活動をしている人がいます。彼女はパートをしながら10匹以上の保護猫を引き取り育てています。その内の1匹が病気を患い手術に100万円以上のお金を支払ったそうです。費用は分割にして、その支払いのために寝る時間を削ってパートを増やしたそうです。僕はその行為に対して称賛を送ると同時に、疑問も感じてしまうのです。いったい何の為に、そんなことをしているのか?という疑問です。僕も愛するペットが病気になれば同じことをするだろとは思います。しかし、法的には猫は物と一緒です。もし、競馬の馬が怪我をすれば、迷わず潰されお肉に変えられてしまうことでしょう。僕は、知人の保護猫の活動も、ある種の推し活ではないかと感じました。

一部地域だったと思うのですが、姉妹の内の一方に子供ができれば、もう一方の姉妹が結婚もせずその子供の育児を手伝うという風習があります。もちろん、姉妹の子供は遺伝子的に見れば自分の子供と大して違わないので、自分の遺伝子を効率的に未来に伝えるための合理的判断だということもできます。しかし、彼女は自分の人生を犠牲にして、甥か姪の成長のために尽くすのです。これも推し活の一種ではないかと思うのです。何故、推し活と思うかということに関しては、その行為に自己犠牲が伴っているからです。

ここで、自己犠牲があるかどうかが、推し活であるかどうかの一つの基準なるのではないかと思うのです。お布施に立ち戻って考えて欲しいのですが、お布施は自分の生活資金の一部を削って他者に捧げる訳です。それは他者に対する自己犠牲に他なりません。バリ島に旅行したとき現地の人から聞かされたことなのですが、彼らは神様へのお供物が負担になって、自分たちは貧しいのだと言っていました。そんなことってある?と思ったものですが、日本の統一教会の一件を考えれば、ないと断言することもできないかも知れないと思います。犠牲にするものが多ければ多いほど、満足感はあるのかも知れません。信仰であるならご利益であったり、推し活であったら推しの役に立てているという実感です。甥や姪を育てる為に結婚を選択しなかった者に関しては成長です。

本能を超えて希求するもの

若干否定的に書いているように感じられるかも知れませんが、そうではありません。そこには、推し活や宗教という枠を超えた、本能的衝動を見出すことができるのではないかと思うのです。それは肉体を発露としてはいないにしろ、食欲や睡眠欲、そして性欲のような、人類に共通する欲求です。だからこそ、エベレストの山頂を目指す登山家のように、合理的な理由を越えているように感じられるのです。ある意味、打算的な損得を超えています。だからこそ『ただ、その推しが好きだから』という説明以外は、ただの後付けの言い訳に過ぎないのです。

人類には、生物としての個人の欲求を超えて、つまり自己犠牲を強いて、他者の為に尽くしたいという欲求があるのではないかと思うのです。それは、生理的に見れば不可解な欲求ではあります。大乗仏教には『菩提心』という考え方があります。仏のような悟りを求めて修行し、生きとし生けるもの全てを救済しようとする、利他心と向上心のことを指します。人間は生物として生存するだけの存在ではなく、精神的も満ち足りなければならないのでしょう。そして、推し活に励む人たちが手に入れるのが自己肯定感です。それは、私は正しい状態で存在しているというお墨付きです。つまり、彼らは推し活をすることによって、自己という存在の不確実性から一時でも逃れることができるのです。それは、宗教を信仰することにおける『神』によるお墨付きとなんら変わらないのではないかとさえ感じられるのです。だからこそ推し活をする人は、『推し』のことを、時として『神』と呼ぶのかも知れません。

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