悟り体験コレクション

スピリチュアル

スピリチュアルに関する記事などを見てみると、『私は悟りを経験しましたー!』などというおめでたい話を結構見掛けることになります。その体験に対して、何を根拠にそれが悟りであると断定しているのだろうと、とても疑問に思うのです。その体験には、『これは悟りです』などと名札のようなものが貼り付けられている訳ではないのです。

禅では、印可状(いんかじょう)というものがあり、悟りを開いたことの認定として師匠から弟子へ送られるそうです。いわゆる「免許皆伝じゃ!」というやつですね。結局、その内にお金で印可状を売り買いする人が現れたりします。悟りの伝えようとする本質からすれば、本末転倒としか言えない、愚かでくだらない行いです。

斯く言う僕も『始まりの記憶』という記事で、自分の体験した『悟りのように思える体験』に関して体験の内容を書いています。お断りしておくと、僕はその体験を悟りのよう思える体験としているだけで、悟りであると断定はしていません。しかしながら、悟りなどに関して取り扱っているこのブログの内容のすべては、その体験を発端としている、ないしはその体験を理解しようとする過程ですので、悟りと断定していないと言うのも少し苦しい言い訳に聞こえるかも知れません。もしかすると、今回の記事は悟りを開いたという人々を若干馬鹿にしているニュアンスを感じるかも知れませんが、それは自戒であり、自嘲であるとご容赦下さい。

悟り体験コレクション

随分前のことにはなりますが、友人と一緒にSNSのコミュニティー内で、悟りの体験を募集したことがあります。数年に渡り継続的に募集していたので、それなりの数の体験談が集まりました。何らかの傾向が分かってくるかも知れないので、個人情報に触れない範囲で引用していきます。特別な人、聖者という人々が経験した体験の記録は多いと思いますが、あなたの隣に居るような普通の一般人の悟りの体験は逆に貴重なのではないかとも思います。ちなみに、引用に関する許可は一切取っていません!

分類できない体験

それらの体験を、類似性によって、ワンネス体験とノンデュアリティー体験の二つに分類してみました。最初の項目では、その二つに当てはまらなかった体験談を書いておきます。

Yさんの場合

座禅をしていたら、突然愛に包まれ、空気、風、音、周囲のもののすべてが意識を持ち、その意識から自分が見詰められ、守られていることに気付いた。

所感・自分の周囲のものがすべて意識だったというところが、後で紹介する『ワンネス体験』に似ています。ただ、その意識は他者であり、それが自分を見つめているというところが違う。要は私と私を見守る者の二者が居るのです。

この体験の後、Yさんは苦手だった感情表現ができるようになり、常に守られていると感じ、安心して暮らせるようになったとのことです。

Lさんの場合

この方は二度体験をされています。

一度目は、寝転んでヒーリングミュージックを聴いていた時、一面オレンジ色に輝く穏やかな景色がビジョンとして見えたそうです。とても穏やかな光の連なりが『一つ』だったそうです。その景色を上から眺めていたが、意識を落としていくと無数の個に分かれていろんな波長で振動しているのが分かった。

二度目は、天河神社のDVDを観ている時に、これも突然起きだそうです。体中を何かが駆け巡るように上がってきて、自然の樹木と、海の波と、そして宇宙の呼吸と一つになるという体験をしたとのことです。この時、宇宙は呼吸していると思ったとのことです。

所感・その体験の後、実生活は何も変わっていないが、内面的には人の多様性を認め、それは愛され許されている。人はどこにいても、何をしていても良いと感じられるようになったとのことです。多様性を受け入れるだけの、自己肯定感が増した感じですね。

体験を俯瞰してみるなら、自分を超えた存在と一体になるという部分が、他の多くの体験と類似するようにも思いました。後述するワンネス体験に分類しても良かったのですが、ここで言うワンネス体験は、あらゆるものが『私』になる体験に限定していますので、分類できない体験としました。

Mさんの場合

目覚めた(悟った)時に、これといった瞬間はなかった。本当は目覚めてるのに、目覚めてないと思考が判断していただけ。気付いたら目覚めていた。自分が悟った根拠は、本当に目覚める前に「目覚めました」って事にしちゃうと、何かしら心に引っかかるモノが残る。しかし、その後、自分は目覚めたとみなしても心にわだかまるものはない。要は自分は騙せないということだそうです。

これは体験自体がない体験です。それなら誰でも『自分が悟った』と言ってみて、わたかまりを感じないなら悟ったことになってしまうと思います。悟りは完全に主観的な体験ですが、さすがにそれを悟りとはみなし辛いところはあります。

ワンネス体験

この体験は、認識される世界に私だけが存在するタイプの体験です。ただ、その『私』は、自我ではないか、自我を凌駕する私で、体験中はあらゆるものが『私』になります。つまり体験の最中は、『私』と他者の境界、あらゆる分離がなくなりがなくなり、すべてが唯一のものになります。

Nさんの場合

台所で無心で食器を洗っていた時、ふと宇宙の様に広くて真っ暗な空間に私の意識だけが居るのを感じ、それによって、私が神なんだと感じたって。その体験は、凄いものではないし、ショッキングな刺激もないが、ハッキリと真理を感じるものだったそうです。

体験の後、たった一つの神であるこの「意識」は、私を演じ、同時にあなたを演じ、地球の自然(山,海,雲,雨)や鳥や動物や虫や魚を演じている。自我を通して思考する事で、自分と他人を分けて、それぞれが別の意識として、様々な感情を味わったり、一人では出来ない触れ合いの体験を、神自身が楽しんでいるのではないかと考えたとのことです。

所感・空間には私しかおらず、それは神だったと感じています。そして、文章から読み解くと、神と等しい『私』は、私ではありながら自我とは使い分けられています。そして、自我とはニュアンスの違う私は神と等しく、それ以外のもののない一者です。典型的なワンネス体験ではないかと思います。体験の後、Mさんは『私も神、あなたも神なんだから、自由に人生を創る事ができると考える』ようになっています。

Sさんの場合

表現するのが難しいが、自分と自分以外の境目がなくなった。全部が『自分だ』ってなったんです。いままでに体験したコトのない喜びに溢れた感じで、セックスよりも気持ち良かったそうです。

『様々な法則のカラクリは、こうだったのか』『物事に価値なんかなかった』『あ。わたしは神やわ』『生まれてもいないし、死にもしない』『愛されていたんだ。というか、愛自身だったんだ』など、様々なことが一瞬で理解できたそうです。そして、その体験を総括して振り返り、『それまでの自分が亡くなり、生きながら生まれ変わった感じ』と書いていました。

所感・これもすべてが私だったパターンの体験です。『全部が自分だった』というところから、ワンネス体験であると思われます。そしてこの体験で、この方は様々な知恵といえる気付き得ることにもなります。特徴的なのは、『それまでの自分が亡くなり、生きながら生まれ変わった感じ』という部分です。名前は忘れてしまったのですが、インドの聖者もまったく同じことを言っていました。

Tさんの場合

横断歩道を渡りかけていた時、突然巨大なエネルギーが頭の方から入ってきて、ものすごい快感が体を貫きました。その瞬間、横断歩道を渡ってくる人達のことを、『私だ』と感じたのです。ふと見ると、街路樹も、目の前のビルも、自動車も、目に入るものすべてが私だったのです。そこには、私以外のものは何もありませんでした。

その時に「いままで、私だと思っていたこの私は無かったのだ。私とは無いものであり、すべてなのだ」と思いました。それは、ほんのわずかな時間に起きました。すぐには歩き出せませんでした。その時「私は、このことを思い出すために生まれてきたのだ。私は、いままで何も知らなかったのだ」と心の底からそう思いました。

そして、その気づきがあったとほぼ同時に、頭のてっぺんから、何か大きなエネルギーが、ドーーッと入ってくるのを感じました。上手くは言えないのですが、百科事典何冊分もの情報が流れてくるような感覚でした。

所感・先に書いたSさんの体験とほぼ同じような内容です。すべてが『私』で、一体だったという体験です。これらの体験が、ワンネス体験の典型になるのではないかと思います。そして、ここでTさんは『快楽』についても言及しています。Sさんも、『その体験はセックスよりもずっと気持ち良い』と言っていました。悟りを経験した際に尋常ではない快感を得ることは昔から知られ、『大楽』などと呼びます。性的な絶頂感をオーガズムと呼びますが、これも本来は宗教用語で、キリスト教における神との一体になった快感を言います。

そして、これもSさんと同じですが、フィジカルな変化だけではなく「いままで、私だと思っていたこの私は無かったのだ。私とは無いものであり、すべてなのだ」というように意味というか、知恵のようなものも体験の後に受け取っています。ここでは『私は無かったのだ』と書かれており、後述するノンデュアリティーの体験と類似するように思われますが、今まで私とみなしてきたもの(自我)はないと言いたいのであり、更に普遍的な『私だと思っていなかった私』が存在しています。完全に私を否定するノンデュアリティーの考えとは少し違いがあるように思います。

Tさんは、ご自身の体験を悟りではないと考えています。そう考える根拠は分からないですが、自分に対して厳しく批判的精神をお持ちの方だからだと思います。悟りの体験には、『小悟』や『大悟』など段階があるとも言います。そうであるなら、『大悟とまでは言わないまでも、悟りの一種』ぐらいにはみなしても良いのではないかと思います。

ちなみに、これと同じ体験は、岡本直人さんのYouTube番組の中で、ゲストの女性も話してらっしゃいました。彼女の場合は自動車の運転中に起こり、信号機が『私』だったそうです。

ノンデュアリティー体験

この体験は、体験する私が居なくなる体験です。いわゆるノンデュアリティーと呼ばれる体験かと思います。ワンネス体験では、分離しているものの境界がなくなって、本質的にすべては一つであることを経験します。しかし、ノンデュアリティーでは、分離する二つのものがなくなりそれっきりです。認識する私すら無いということになる場合が多いです。それの何が素晴らしいのかと疑わざるを得ないのですが、『私が存在しなければ、私の苦しみも存在しないでしょ』という理屈のようです。

Hさんの場合

この方は禅の修行を行なっていて、自分をギリギリまで追い込んだときに気付きが起こり、数日間私が居ない状態が続いた後、我に帰ると悟っていたという体験をしています。

所感・まあ、僕からすれば離人症か心身喪失状態ではないの?と思うのですが、私が完全になくなる体験をしているのはこの方だけでした。類例がないなら、分類できない体験とするべきではないかと思われるかも知れません。

しかし、どうやらこのような状態が、現在悟りと呼ばれる体験の主流のようであり、ネット上では同じような経験が報告されているのです。それが、ノンデュアリティスピーカーの大和田菜穂さんです。彼女は近所を散歩しているときに同様の体験が起き、数日間も『私』は居ないという状態が続いたそうです。しかし、認識する私がいなくて、誰がそれを体験したのか、体験したことが分かるのか、まったくもって疑問でしかありません。

悟り体験をコレクションする意義

ここまで悟りの体験を書き留めてきました。悟りの体験と書いていますが、目覚め体験や、至高体験も含んで募集した内容ですので、体験談を書いてくれた人もそれを悟りとみなしていない場合もあります。募集した方もされた方も、それぞれの定義を十分に理解できていなかったからです。

そうだとしても、何らかの意義はあると思っています。老子は、『知る者は語らず、語る者は知らず』と言いました。悟りに関係する人の中には、悟りの体験談は余り話さない方が良いと言う人がいます。その体験が本当の悟りであったとしても、聞いた人に要らぬ先入観や、悟りに対する強迫感を植え付けてしまいかねないからです。僕もその通りだとは思います。

しかし時代は違うのです。いまや、一度ネットで悟りを検索すれば、悟りの情報は雨が降り注ぐように無数に表示されるのです。それを妨げる方法はありませんし、あったとしても余りにも不自然な行為です。それならばいっそ飽和する程の情報量があれば選択はより自由になります。例えばZ世代と呼ばれるような氾濫する情報の中で育ってきた世代は、情報処理の方法が古い世代とは違います。彼らは取捨選択に長けています。そして、彼らの能力は十分な情報があるとき、最大限に発揮されるのです。

この記事で書いたすべての体験に、一つだけ共通するところがあります。それは最終的に偶然起こるということです。つまり、悟りをコントロールすることはできないのです。それならば、悟りに関する情報のシャワーにあえて飛び込むのも、意義ある方法の一つではないかと思うのです。

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