悟りとは何か? バージョン1.1

精神世界

 この記事は、『悟りとは何か?』という記事の続編というか、若干の訂正ないしは追記になります。もしよろしければ、そちらの方もあわせてお読み下さい。

悟りとは何か?を、僕はどう説明したのか

 以前の記事で、悟りとはどのような現象なのかを、ユング心理学の自我セルフ軸を鍵に、そして梵我一如と不二一元論をツールとして理解を深めようと試みました。

図1

 その時使った図がこれです。円が心の全体を表し、弧によって分けられた上が意識的領域で下が無意識的領域です。意識の中には自我があり、無意識の中にはセルフがあります。セルフはユングの提唱した概念で、私という心の中心を表し、真我とか梵と言い換えることもできると思います。そして、その自我とセルフの間を繋いでいる赤い線が、自我セルフ軸です。この自我セルフ軸によって繋がることで、自我とセルフは影響を与え合っているのです。

 そして、ユング心理学の一部では、何らかの原因でこの自我セルフ軸が崩れ、自我がセルフの中に落ち込み一体になってしまった状態を悟りであると仮定しています。僕はそこに不二一元論の考え方を当てはめました。自我を認識主体、セルフを認識される客体としました。『高野山で非二元と出会う』でもお話ししましたが、主体と客体は対になる存在で、相対関係を持ちます。片方だけでは成り立たず、それぞれが対になることで成り立つ概念です。例えば、善悪、男女、左右、有無のようなものです。そして、自我セルフ軸を相対関係を維持する反発力とし、その反発力が失われ、対という相対関係が一つの存在に和合した状態を『悟り』であると定義しました。

あえて間違った説明をしてみる

 ここまでは、特に問題のないところです。問題になるのは梵我一如の思想を、不二一元論に取り込もうとした部分からです。梵我一如は不ニ一元論と同じように、梵すなわちブラフマンと、我すなわちアートマンが一つになった状態を言います。無論、それもまた悟りの状態です。僕は、この別々の二つの理論を、同時に満たす説明を考えました。何故なら、それらが別々のものであると思っていたからです。ここからは言葉だけで説明すると、違いが分かりずらくなるので図を使いながら説明していきます。

図2

 水色の線が自我セルフ軸で、その両端にある赤い丸が対になる存在、自我と真我を表しています。その間の、黄色い丸が対という相対関係が一つの存在に和合した状態、つまり『悟り』を表しています。その黄色い丸に『和合、一元、不二、悟り』などの言葉を当てはめているのは、理解の助けになるかと思い、同様の表現を当てはめただけです。

 さらに、赤い丸と黄色い丸が同時に存在しているように見えますが、これも理解を助けるためのイメージとして書いているだけです。黄色い丸は悟りの状態を表し、その状態の時両側の赤い丸は黄色い丸の中に統合され存在しません。と言うよりも、両側の赤い丸が統合され一つになった状態が黄色い丸です。つまり、あくまでも説明のし易さを優先した方便です。ともかく、これを不ニ一元論の軸とみなして下さい。

 真我の赤丸からも反対方向にも、水色の線がのび、一番端の赤丸が梵を表しています。これは梵我一如を表す軸で、間にある黄色い丸は同じく『悟り』を表しています。そしてこの図2に限っては水色の軸は、相対関係を表すのと同時に時間関係も表しています。理由としては、黄色い丸が二つある、つまり悟りが二回存在してしまうからです。理由は、梵我一如と不二一元論がそれぞれ悟りを指し示すもので、それぞれが別々のものである以上、悟りも一つずつ計二回起こると考えるべきだからです。よって、一回目の悟りが起こった後に、さらに二回目の悟りが起こることになります。同時に起こるなら、それは一つの悟りだからです。

 そして、この説明は、明らかに不自然というか間違っています。悟りは真理であり、真理は他者に依存せず、それのみによって成り立たなければならないからです。悟りが時間経過とともに二つ必要なら、一つ目の悟りは前提条件に過ぎず、二つ目の悟りは結果に過ぎません。つまり、この説明は間違っているのです。

二つの悟りなしに、二つの理論を同時に説明できるのか?

 それでは、一つの悟りだけで、別々な二つの理論を説明できるでしょうか。その時考えたことを図にしてみたいと思います。

図3

 これが、『悟りとは何か?』という記事の中で書いた考え方です。この図3だけでは理解できないと思いますので、以下に説明をしていきます。

 上にある赤丸が、主体としてのアートマンつまり自我で、下にある赤丸は客体としてのアートマンで真我です。その間を水色の線が繋ぎ、真ん中に黄色い丸があります。水色の線は不二一元論の軸を表し、真ん中の黄色い丸は悟りを表しています。主体も客体も、ともにアートマンとしているのは、すべてを私という存在の内側で解決したかったからです。理由は唯識の考え方です。つまり、認識されるものは、すべてが認識のスクリーンに映し出された幻なのです。幻の存在を証明しようとしてもできるわけがありましません。ですから、認識の内側だけで認識する必要があるのです。それは、認識する主体である私が、認識する私を客体としてして認識するという全くもって矛盾する行為であることは認めます。しかし、そうでなければ、自己の存在証明がなされないこともまた事実です。

 それでは、梵我一如の軸はどこにあるかというと、この図の中にはありません。客体としてのアートマン、即ち真我が赤丸として描かれ、ブラフマン即ち梵を表す赤丸と🟰(イコール)で繋がれています。しかしながら、その🟰は梵我一如の軸ではありません。なぜなら、真我と梵は相対関係にないからです。それは同一のものの表現の違いと言って良いもので、だからこそ🟰で繋がれている訳です。梵我一如の思想において繋がっているものは、相対的対立関係にあり、対の関係になければならないのです。同じものには相対関係も対立関係も生じません。それでは、その矛盾を回避して、図を描くことはできないものでしょうか。

図4

 そういう訳で若干の変更を加えて、図4を描きました。主体としてのアートマンと客体としてのアートマンが和合しているのと同時に、主体としての自我と、梵としてのブラフマンも和合しているのが分かります。そして真我と梵は同じものなので、対立物の和合としての悟りは一回しか起こっていません。水色の線である下部の自我セル軸が二股に分かれているように見えますが、赤丸で示される真我とブラフマンが🟰で繋がれることによって、本質的には赤丸は一つでそれらから伸びるする水色の線も実際のところ一本です。つまり、実際のイメージは、対になる二つの赤丸の間を水色の線が繋ぎ、その真ん中に悟りや和合を示す黄色い丸があるだけです。

梵我一如と不二一元論は同じことの表現の方向性の違いに過ぎない

 そう、赤丸の含む意味が複数に増えただけです。それに関しても、不二一元論の軸の段階で複数の意味を内在していた訳ですから、それにアートマンとブラフマンを書き加えれば良いだけなのです。というよりは、アートマンとブラフマンに限定される梵我一如の思想に、対をなす様々な存在の意味を加えたものが、不二一元論なのです。つまり、梵我一如と不二一元論は別々のものではなく、本来は同じものだった訳です。せいぜい不二一元論は、梵我一如のアップグレード・バージョンぐらいの違いしかありません。それを、違うものとみなしていたことで、僕の考えの混乱と迷走は始まっていたのです。同じものに、同じものを取り込むことはできません。それは既にそこにあるからです。

図5

 結局、梵我一如も不二一元論も、この図だけで良かったのです。それは同じものなのですから、わざわざ違いを作ろうとして、二つの軸に拘り同時に表そうとしたことが間違っていたのです。

方向性の違いと、一つの中心を図にすると

 しかしながら、梵我一如、そして不二一元論と違う言葉で表現されている以上、表現における方向性の違い程度の違いはあり続けています。それを踏まえて、もう少し理解しやすい図は描けないものだろうかと思う訳です。

図6

 これでどうかと思うのです。この図であるなら、梵我一如と不ニ一元論は同じ中心を持ちながら、別々の方向性の違いを持ち続けています。縦軸が不二一元論で、横軸が梵我一如です。縦か横かに意味はありません。違う方向性を持ちながら、同一の中心を持つということに意味があります。そして、中心は悟りの状態を表しています。

 これが、『悟りとは何か?』と言う記事の中で、十分に説明されておらず、誤解を与えかねないと思われる部分の訂正です。ただ、その部分も間違いとまでは言えないので、記事にはそのまま訂正を加えず残しておきます。良かったら、暇な時にでも読んでみて下さいね。

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