宗教は、ペテンかアヘンか?

こころ

 今回は現代の宗教に対する、単なる愚痴です。もちろん宗教には価値があります。しかし、信仰を持たない者からすれば、組織としての宗教も、それを信じる信者の人々も、とても愚かに思えてしまうときがあるのです。

信仰と愚かさ

 僕は宗教が大好きです。興味の大半は宗教に代表される精神世界の出来事にあると言っても良いかと思います。しかしながら、信仰を持ってはいないのです。「えっ? これだけ、神や真理を語っておいて信仰がないの?」って思われる方もいらっしゃるとは思いますが、僕には信仰がありません。根拠のないものを、根拠のないまま信じるということに意味を感じられないないのです。少なくとも、根拠を探すこともなく、盲目的に他人のメッセージに飛び付くことは、愚かな行為にしか思えません。

 例えば御守りなどもそうです。神社やお寺にお参りすると、特に神社などでは必ずと言って良いほど御守りを売っています。健康、安全、願望成就に縁結び、数え上げれば切りがありません。人間の欲望、ないしは欲望に潜在している不安の数だけ種類が存在しているような気がします。

 それに、お金を貰うだけの根拠があるのかということです。例えば、健康のために薬を販売するとすれば、様々な検査をして効果が証明されていなければなりません。しかし、御守りにその様な検査はありません。販売する方が、「これこれこういう効果があります」と言えば良いだけなのです。

 祈祷などもそうです。神社や一部仏教宗派においては祈祷というものを行います。願いを叶えるための呪文を唱え儀式を行ってもらい、対価としてのお金を貰う行為です。まあ言うなれば、専門の能力を持った者に魔術を使ってもらう訳です。「やらやれ、魔法使いの登場かよ」と思うところではあるのですが、この化学万能の現代社会においても普通に行われている行為です。

 まあ、日本の場合は伝統ですし、効果が保証されている訳ではないということを了承した上での話なので、それでも良いのかなって思うところではあります。おそらくその伝統は、縄文時代のシャーマニズムから途切れることなく続いているのです。

それはお金の問題か

 しかしです、統一教会の霊感商法などは法律で規制されているのです。「この壺を買えば幸せになれるよ」というのと、「この御守りを買えば幸せになれるよ」というのとでは、どう違うのかが分からないのです。統一教会側の人が、その壺に幸せになる効果がないと知りながら、高額で販売しているのなら詐欺だろうと思います。しかし、その壺に幸せになる効果があると信じていれば、神社の御守りと何ら変わらないのではないかと思うのです。変わるところがあるとすれば、金額程度しかないのではないかと思うのです。

 実際問題、金額が最大の問題なのだと思います。安ければ問題はないし、あまりにも高額だと問題だということです。本当は販売している人が、その効果を信じているか、信じていないかどうかが最大の問題になる思うのですが、壺や御守りの効果を信じているかどうかを、客観的に証明する方法はないのです。誰も効果の証明のできないもの、つまり気休めに払える程度の金額であるかどうかが問題なのだと思うのです。あまりにも高額な場合は、とりあえず規制しておこうということかと思います。

宗教はペテンか?

 子供の頃、近所のお寺のお坊さんが「幽霊なんているわけないやろ」と言っていました。それはさすがに、ちょっと待てと思うのです。どういう真意で言ったのかは分からないですが、唯物論的な否定の仕方だったと思います。子供相手だから軽く見て、本当の内心を言ったのかも知れません。お坊さんでしたから、お葬式をする訳で、お葬式は亡くなった方の霊(魂)が地獄に落ちず、浄土で安らかに過ごすことを目的としています。それなら、霊の存在を信じずに、お葬式を上げてお金をもらうのは詐欺ではないのかと思ったものです。まあ、お坊さんにも生活があるので、目くじらを立てて非難する程のことでもないのかも知れないですが、お金をもらうのですから、もう少ししっかりしてもらいたいものではあります。

 宗教ではないですが、スピリチュアル界隈でのアセンション騒ぎのとき、いわゆるスピリチュアル・スピーカーの人が「アセンションが起これば、人間は物質ではなく透明なエネルギーのような存在になる」と言っていました。しかし、予告された日にちが近付くと、その言質は「アセンションが起こっても、直ぐには透明にはならない。完全に透明な存在になるのは千年後だ」と変化していきました。良い大人が言うことをコロコロ変えるのも驚きましたし、千年後の約束で人々を煽動しようとすることに、そして、そんな約束を信じ踊らされている人々にも呆れたのを覚えています。千年後には、責任を取ることのできる者は、誰一人生き残っていないのです。

 ただ、根拠のない約束で人からお金や労力を奪うことを、宗教は随分とやってきていると思います。特に新興宗教の場合は顕著なのではないかと思います。何人入信させれば天国に行けるとか、幾ら幾ら寄付すれば天国に行けるとかの誘い文句で、労働力やお金を信者からせしめていくのです。結果の分かること、例えば入試の結果などで、十分な効果が現れなかったとしても「信心が足りなかった」とでも言っておけば良いのです。正直、楽な商売だなって思います。

 そんなの、少数野党が「自分達が政権を獲ったあかつきには、消費税をゼロにします。十万円を全国民に配ります。だから、一票入れて下さい」って言ってるのと同じです。政権なんて絶対獲れないのが自分達でも分かってるから適当なことを言っていられるのです。実現できなかったのは与党のせいだとでも言っておけば言い訳はたつのです。そして、政党助成金をもらうのです。これもまた楽な商売だなって思います。

宗教はアヘンか?

 ただまあ、そんなのに騙される方も騙される方です。「明日、パチンコで倍にして返すから、一万円貸して」とかいう人に、ホイホイお金を渡しちゃうようなものです。返ってこないことぐらい馬鹿でも分かるはずなのです。それでも騙されるのは、信仰する側が現実の生き辛さから目を背け誤魔化す為の鎮痛剤として、宗教を利用し続けたい、つまり騙され続けたいと願っているからかも知れないと思います。

 もともと宗教は、人の苦しみを救いたいという切実な気持ちから、様々な救済方法を考えたのだと思います。しかしながら、人の心の弱さにつけ込んだ商売の道具に変わってしまっているのではないかと、思う時があるのです。いやいや、商売の道具ならまだ問題はないのです。それが、ペテン師の詐欺に成り下がり、信仰する行為自体が『大衆のアヘン』としての役割しか担っていないのではないかと思うと、憂いを感じずには居られなくなるのです。

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