十牛図と英雄の旅

スピリチュアル

 十牛図というものをご存知でしょうか。仏教に興味のある人は、いつか目にするものだと思いますし、特に禅に興味のある人なら、必ず目にする十枚の絵の連なりです。

十牛図の簡単な説明

 十牛図は、悟りに至る十段階の過程を、牧人である少年が牛を探し、捕まえるまでの様子を描いた十枚の絵と詩によって象徴的に表現しています。いわゆる十牛図は何種類も存在するのですが、日本では廓庵(かくあん)禅師の十牛図が一般的です。今回は十牛図の解説をするつもりはないのですが、一枚目の絵から簡単に説明だけしておきます。

 ① 尋牛(じんぎゅう) 

 牛が逃げ出していることを知り、牛を見付けようと志すがいまだ見付かっていない状況。牛は本当の自己、つまり真我や仏性と呼ばれるようなものの象徴で、本来はすべてのものに備わっているものであるが、分別の世界に陥って見失っている状態。

 ② 見跡(けんぜき/けんせき/けんじゃく)

 牛を見付けるための手掛かりとなる足跡を見付けること。先人達が残していった経典や考案に触れることを指します。

 ③ 見牛(けんぎゅう)

 牧人は牛の後ろ姿を見付けます。修行の結果、本当の自己の片鱗を見ること。禅ではこの状態を大悟(到達点としての最終的悟り)とするそうです。

 ④ 得牛(とくぎゅう)

 暴れる牛を無理やり捕まえ、従わせようとします。垣間見た自己の片鱗を、無理やり自我に組み込もうとします。

 ⑤ 牧牛(ぼくぎゅう)

 無理矢理捕まえた牛を、飼い慣らそうとします。ただ、牧人と牛は別々で、綱で繋がれている状態です。ただし、自我と自己は一体になっておらず、自我による自己のコントロールが必要な状態です。

 ⑥ 騎牛帰家(きぎゅうきか)

 牛の背に乗り、笛を吹きながら家に帰ります。ここでは自我と自己が一体になり、コントロールは必要なくなっています。自己、ないしはそれから得られた叡智が完全に自我に組み込まれ、自然と働いている様子を表しています。

 ⑦ 忘牛存人(ぼうぎゅうぞんじん)

 家に帰ってきて、牛を小屋に繋ぎ、牛を探していたこと、捕まえたことも忘れてしまう状態。自我が探していたのは自己なのであって、結局自分しかいないことを知る。

 ⑧ 人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう/にんぎゅうぐぼう)

 牧人も牛もいない空白の円。禅で言うところの『円相』。自我も自己もなくなり、すべてから解放された状態で『0』、即ち空を表す。

 ⑨ 返本還源(へんぽんかんげん/へんぽんげんげん)

 本来の自分に戻り、ありのままに世界を見る。

 ⑩ 入鄽垂手(にってんすいしゅ)

 布袋様の姿になった牧人は、世俗的な町へ向かい、人と接し、人々を悟りへと導きます。

 これが十牛図の絵、それぞれが持つ意味です。解説しないと言いながら解説しちゃってますが、僕の意見というより、いろいろな見解を集めて一つに纏めた感じです。個人的には、納得できないところもあります。(ちなみに、十牛図の絵はWikipediaから借りました。著作権的に問題あるなら教えて下さい)

もう一つの十牛図

 ところで、ここまでお話ししたのは日本で親しまれる廓庵(かくあん)の十牛図に関してです。先にもお話ししたように、十牛図には様々なバリエーションがあります。中国や韓国では、普明(ふみょう)の十牛図というものの方が一般的だそうです。

 普明の十牛図は、廓庵の十牛図よりも100年ほど前に作成さられました。つまり、先に説明した廓庵の十牛図の方が後に作られ、普明の十牛図の改良版ということになります。それでは普明の十牛図と、廓庵の十牛図はどこが違っているのでしょうか。つまり、廓庵の十牛図は、普明の十牛図から何処が変更されているのでしょか。

 普明の十牛図は、円相を表す人牛倶忘の図で終わっているのです。返本還源と入鄽垂手の二つの図がありません。もちろん、普明の十牛図も十枚の図で構成されているので、他の図が付けて加わっていることになります。つまり、廓庵の十牛図からすれば、敢えて二つの図を抜いてまで、返本還源と入鄽垂手の図を付け加えたかったということになります。

 ここでもう一度、返本還源と入鄽垂手の意味を振り返ってみたいと思います。返本還源の意味は『本来の自分に戻り、ありのままに世界を見る』ということです。このありのままに見る世界とは、牧人が牛を探しに出る前に暮らしていた世界のことです。ありのままに見れると言うことは、ありのままに見れていなかった状態と同条件で比較する必要があるわけで、悟る前と同じ世界であることが推測されます。

 入鄽垂手は『世俗的な町へ向かい、人と接し、人々を悟りへと導く』ことを指します。絵の中では、布袋様になった牧人が、子供に語り掛ける姿が描かれています。これはその子供を悟りを求める、つまり牛を探す旅に導こうとしているのです。そして、話を聞いた子供は、新たな牧人となり、布袋様になった牧人がそうであったように牛を求める旅に旅立つのでしょう。

 かたや普明の十牛図の方にはこの部分がありません。牛を捕まえる、つまり悟りを開いた後の牧人は、人牛倶忘の図によって空を体得して終わります。この世界に戻ってきて、人々を悟りに導くことはしません。牧人は、空の世界からは戻って来ないままなのです。

 これを日中韓の民族性の違いに絡め、日本では悟った後も、特殊な世界に安寧とするのではなく、世俗に下って利他的行為を行うことが大切とされるからだと言われる場合があります。確かに、それはその通りだと思います。しかし、それだけなのでしょうか? 廓庵の十牛図に返本還源と入鄽垂手が加えられている理由は、本当にそれ以外にはないのでしょうか?

もう一つの円環

 それでは、ここでクイズです。十牛図の中に円は何個あるでしょうか?

「十個!」と元気一杯答えたいところだと思うのですが、そんな当たり前のことがクイズになる訳もないし、このブログを書いている人はかなり捻くれてそうだから、きっと答えは別にあるのだろうと訝られる方のほうが多いだろうと思います。そうなのです。廓庵の十牛図には、目に見えない円環がもう一つ存在しているのです。僕は、この円環を作り出すために、廓庵禅師は普明の十牛図に返本還源と入鄽垂手を加えたのだとさえ推測しています。

 そしてこれが、廓庵の十牛図に隠されたもう一つの円環です。時間的直線は、入鄽垂手によって始まりと終わりが繋がれることにより一つの円環を描くことになります。これと同じようなシンボルに、ウロボロスの蛇があります。自らの尾を飲み込むことで円を描く蛇で、永遠性を象徴します。つまり、廓庵の十牛図は、始まりと終わりが繋ぎ合わされることによって永遠性、あるいは永遠の自己の成長を表すのかも知れません。

 ちなみに、僕の描いた円環において、横断するように線が引かれているのが分かると思います。そして、上半分が『日常の世界』、下半分が『悟りの世界』と記されています。日常の世界が、少年の牧人が暮らし、悟りを開いた後の布袋様となって人々を導く世界で、悟りの世界が自我と自己が一体となり変容の起こる世界です。返本還源によって帰って来たことが示されている以上、世界は一つの同じものではなく、二つに分かられているのです。

その円環はモノミスと呼ばれる

 僕の描いた廓庵の十牛図の円環に、何らかの必然性があるのかという疑問が生まれると思います。直感的な発想に根拠を求めるのも野暮かも知れないですが、いちおう円環にするべき必然性を示しておきます。実はこれと同じ円環が存在しているのです。その円環を、神話的円環ヒーローズ・ジャーニーと呼びます。『また円か!』と思われるでしょうが、その通りで、再び新たな円が現れます。

 これが神話的円環です。この円環は、モノミスという理論に沿って描かれています。モノミスとは単一神話、神話の原形、原質神話などと呼ばれ、英雄神話の筋書きにおいて顕著に現れます。千差万別に思えるストーリーの違いは、構成要素の違いに過ぎず、基本的な構造に違いはないという事実を指します。つまり、まったく違うストーリーに思える物語も、個別の要素を取り除けば、すべてが同一の構造をしているということです。

 ちなみに、この理論を世に知らしめたのは、このブログでも何度か取り上げさせて頂いた比較神話学者のジョーゼフ・キャンベル氏です。キャンベルは、英雄神話が特にモノミス的構造を取る理由を、英雄神話が人類の普遍的に希求する「魂の成長」を物語るものだからだと言っています。つまり普遍的だからこそ、同一の構造を持つ必然性がある訳です。

 そして、この神話的円環と、十牛図の円環の類似性に関しては説明するまでもないかとさえ思えるのです。神話的円環に書かれている冒険への召喚は、十牛図では尋牛に当たります。救いの手見跡と呼応しています。見跡で見付ける牛の足跡は、過去の経典や問答であったりしました。それは先人からの救いの手です。英雄が冒険を終えて日常の世界に戻ってくる帰還返本還源に当たり、霊薬は、英雄が冒険の末に勝ち取った恵みと宝を、日常の世界にいる人々に分け与えることを言います。これは十牛図では入鄽垂手を示します。

 神話的円環でも、円を横断する線が引かれ、この線は『冒険の境界』と呼ばれています。この線より上が日常の世界で、下が冒険の行われる非日常の世界、アビスと呼ばれる深淵です。この境界線より下の部分、十牛図の円環では悟りの世界と呼んだ世界のことです。この世界の最深部では、英雄の冒険において、確信的な出来事が起こります。聖婚であったり、父との一体化、霊薬の掠盗であったりします。これらは、英雄の旅の最大の目的です。十牛図の円環においては、悟りの獲得ということになります。

十牛図に対する違和感

 十牛図の解釈を行った部分で、個人的に納得できないところがあると書いたのは、この悟りを獲得する部分に関してです。神話的円環と比較すれば、最も確信的な出来事は円環の最深部で起こらなければならないのです。禅では、見牛を大悟とすると聞きます。しかし、それではタイミングが早過ぎるのです。円環の下半分にやっと入ったばかりです。それが悟りであったとしても、せいぜい小悟を体験したに過ぎないと思います。悟りが起こるとすれば、円環の最深部、牧牛と騎牛帰家の間のタイミングで起こらなければならないのです。

 ともあれ、冒険の境界線より下の世界は、日常の世界ではありません。摩訶不思議な出来事がいとも容易く起こってしまう非日常の世界なのです。時間の流れも一定であるとは限りませんし、だからこそ、円環は永遠性を詰め込める器と成り得るのだろうと思います。悟りの世界で起こる出来事を大釜に投げ込んでグツグツ煮込んでいる程度の気軽さで考えた方が良いのかも知れません。きっと、そこが無秩序であるからこそ、魂の変容は起こり得るということなのでしょう。

モノミスであることの意義

 十牛図の円環がモノミスの構造を持ち、キャンベルの言う神話的円環であることはもはや明らかです。そして、その構造は、廓庵によって普明の十牛図に持ち込まれました。それでは、それによってどのような変化がもたらされるのでしょうか。

 モノミスという人類共通の構造を導入することにより、十牛図は悟りの段階を示す道標から、名も無き英雄の神話へと昇華しました。日本人に愛されている理由はそんなところなのかも知れません。日本人は論理的実用性より、控え目でもロマンを重要視するのかも知れないと思えます。

 ともあれモノミスの構造は、人類が普遍的に持つものとして、意識できないあなたの心の奥底にも常に存在しているのです。そこに共通した構造があるからこそ、あなたは共感により神話的物語と繋がることがでるのです。

 映画や小説の多くが、このモノミスの構造を意図的に取り入れています。理由は、意識の深層、つまりユングの提唱した集合的無意識において、登場人物とあなたとの間に、強い共感を生み出すことができるからです。つまり、十牛図がモノミスの構造を獲得したからこそ、あなたが十牛図を見るとき、あなたは悟りへの冒険の旅に出ている牧人であり英雄でもあるのです。

 あなたに、ボン・ヴォヤージュという言葉を贈ります。

コメント

タイトルとURLをコピーしました