この間、友人と新興宗教の建物を見学に行ったとき、「何を目的に、人は宗教を信仰するのだろう」という話になりました。僕は、「自己の永遠性を求めて信仰をする」と答え、友人は「現実の生活における利益を求めて信仰する」と答えました。

僕に言わせれば『そんな訳ないやん。自己の不確実性から逃れ、永遠を保証して欲しいからだよ』と強く感じたのですが、よくよく考えれば確かに友人の言葉にも一理はあるのです。というより、友人の言うことの方が表面的には明らかに正しいと思われるのです。
現世利益
僕と友人の間には共通の知人がいて、その人はどっぷり新興宗教にハマっているのです。その宗教は仏教系の宗教で、職場で知り合った人を手当たり次第に勧誘しています。職場で宗教活動はさすがにまずいと思うのですが、彼女は一切気にしていません。自分の営業成績が良いのも、娘さんが良い相手と出会えたのも、すべて自分が信仰しているからだと言い張るのです。僕からすれば、周囲の人の優しい援助のお陰であって、決して信仰をしているからではないのです。しかしながら、彼女が最終的に感謝するのは自分の宗教に対してだけです。
僕からすれば、彼女が信じているのは仏教であって、仏教は煩悩を滅することで幸せに生きる宗教なのです。煩悩とは欲望であり、彼女は自分の欲望を十足させるために仏教を利用しているように感じます。ことあるごとに、お布施しては願いが叶ったと喜んでいるのです。
ただ、彼女ばかりを責めるつもりはありません。彼女は仏教徒だったから釈然としないものを感じるだけで、他の宗教もだいたい同じようなものです。神社にお参りして誰かの残した絵馬を見れば、多くの願いが書かれています。インド旅行をして、カンニヤークーマリーという場所を訪れとき、そこでは三倍ご利益があると言われました。スーパーのポイント3倍デーのような感じです。そして、僕の言った『自己の永遠性を求めて信仰をする』という信仰する動機も、私が永遠に存在したいという欲求に根ざしていると言えます。

確かに、友人が言った『現実の生活における利益を求めて信仰する』という理由は間違ってはいないと思います。間違っていないどころか、それは確かに事実なのです。ちなみに、悟りを開くために欲望を滅する必要がある。ないしは、欲望を滅した結果悟りに至るというような考えには反対です。欲望を持っていても悟りに至れるし、時として欲望を持っているからこそ悟りに向かおうとするのだと思います。
ただ、幸福になりたいなら、煩悩=欲望はできるだけ捨てた方が良いと思います。『一瞬で幸せになる方法』や、『やさしく学ぶヨガの心理学を読んで』で書いた内容と同じことですが、幸福と不幸は相対的なものだからです。幸福になりたいと願った瞬間、不幸は存在してしまうのです。つまり、幸福が不幸を生み出しているのです。そうであるなら、幸福になるためには、幸福になることを諦めるか、幸福になろうとすることによって訪れる不幸を、幸福の積立預金と思って受け入れるしかありません。これは、不ニの思想から発展させた考え方です。
本当の動機
話がかなり逸れてしまいましたが、宗教を信じる人は、現実の生活における利益を求めて信仰するのかという部分に話を戻します。友人が感じているように、確かにほぼすべての人は現世利益を宗教に求めます。お金が舞い込みますように、仕事で出世できますように、素敵な彼氏ができますようにと言った具合です。人には百八つの煩悩があると言われますが、願いの種類はそんなものでは収まりません。しかしながら、それでも僕は『人は自己の永遠性を求めて信仰をする』と言い続けたいのです。
ずいぶん前に読んだ、コリン・ウィルソンという人が書いた至高体験という本の中に、面白いことが書かれていました。『欲求の五段階説』で有名なアブラハム・マズローという心理学者が提唱した、至高体験(peak experience)によって人生を改善するといった内容だったと思います。至高体験は、悟りの体験を含むが、もう少し幅広い心理的高揚体験といった印象でした。
至高体験はさておき、ウィルソンは人間の欲求を本質的には一つのものであるとしていました。オリンピックで金メダルを取りたいという欲求、山を登って頂きを極めたいという欲求、それらのすべてが、自己という存在明確にし永遠のものにしたいという願望が根底にあると書いていたと思います(何ぶん随分前に読んだ本ですから細部は間違っていると思いますが、大筋は間違ってはいません)。つまり、人間の持つ様々に違った願望を、本質的には同じ欲求であり、その欲求が現実世界に現れたときの方向性の違い程度に捉えているのです。
オリンピックで金メダルを獲得するのは、人類として唯一の頂点に立つ経験ですし、エベレストの山頂に登るのも世界最高峰を踏み締める唯一無二の経験です。それによって人は曖昧な雑踏から抜け出し、自己を唯一の存在にすることができるのです。そして、唯一の存在は、神や真理と等しい印象すら与えます。それこそが人間が日常生活の中で行える最高の自己実現なのだと思います。ただ、それも本質的には、至高体験によってもたらされる至福の投影だと書いていたように思います。
遠きささやきを聴け
ウィルソンの言ったように、様々な願望実現の行動が一つの欲求の現れであるとすれば、友人の言った『現実の生活における利益を求めて信仰する』という目的と、僕の言った『自己の永遠性を求めて信仰をする』という信仰の目的は両立すると思います。つまり、僕の言った目的が現実の世界の具体例に投影されて現れたのが友人の言った目的なのです。
あなたが、神仏の前で手を合わせ心の中で願い事を呟くとき、そこには自己の永遠性への希求が背景音のように響いていると思うのです。食べ物に困らないようにお金が欲しいというのも自己を保存したいという欲求ですし、素敵な彼氏が欲しいというのも最高の恋愛で自己を焼き付けたいという衝動です。テストで良い点数を取って合格したい、友達が欲しいなどといったこともそうです。それらの願いは表面的な装飾を取り払い本質を辿れば、ないしはマズローの言うように表面的な欲求を次々と満足させ、最終的な段階に辿り着けば、究極的な自己実現ともいえる『自己の永遠性の獲得』に到達できるのだと思います。
その欲求を具体的、ないしは直接的に叶えるのはマズローの提唱すると至高体験しかないのかも知れません。そして、至高体験には、仏教やヒンドゥー教のいう悟り体験や、キリスト教などのいう神秘体験が含まれるのだろうと思います。すべてのものが滅びいくこの現実世界に於いて、永遠性を持っているのは唯一神以外に存在せず、それらを垣間見たり、一瞬合一する体験が悟りや神秘体験だからです。
ここまでが、『現実の生活における利益を求めて信仰する』という友達に対する、『自己の永遠性を求めて信仰をする』という意見を持つ僕からの手の込んだ弁明です。しかしながら、あなたがお寺で手を合わせて願い事を言うとき、神社で絵馬に願い事を書くとき、そしてぼんやりと一人未来を夢見るとき、そこにより本質的な欲求のささやきを耳にしているのかも知れないということを覚えておいてください。
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