サイン = 信仰のレコンギスタ 3

レビュー
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 この記事は『サイン = 信仰のレコンギスタ 2』からの続きになります。まだお読みでない方は、そちらの方から読んで下さい。

信仰のレコンギスタ

 さて、ここからがこの記事の本題なのですが(やっとかぁと思っている人、すみません。お待たせしました)、このサインという映画が信仰を取り戻す上でどう役に立つのかということです。もちろん、この映画は、信仰を失ったグラハムという元牧師が、再び信仰を取り戻す経緯を描いています。つまり、視聴者に対しても、この映画は、信仰を失った者が信仰を取り戻すための一つの指針を示してくれるのではなかと思うのです。

『サイン』とは何か?

 何がグラハムの信仰を取り戻す切っ掛けになったのかを知るために、信仰を失っている状態と、再び信仰を取り戻した状態を比較していこうと思います。信仰を失った状態のグラハムは「人は二つのグループに分かれる。幸運な経験をした時に一つ目のグループは、幸運や偶然よりそれ以上のものをサインだと考える。誰かが何かが見守ってくれている証拠だと思うんだよ。二つ目はただの運だと見る人。運が良かったと見る人。内心では結局頼れるのは自分だけだと思っている。だから恐怖で一杯だ」と言っています。そして、グラハムは自分のことを「誰も見守ってなどいないんだよ。自分しかいない」と、二番目の人間であることを告白します。

 信仰を取り戻す過程はグラデーションを描き段階的に変化しますが、決定的に変化するのは、やはり宇宙人と対決し、モーガンを救う前と後なのです。モーガンを捕獲した宇宙人と向き合ったグラハムは、再び妻との死別の瞬間を思い起こします。妻のコリンは「運命なのよ」と断りを入れてから、「グラハムには、あの人には『見て』と伝えて。メリルには『フルスイングして』と伝えて」という言葉が続くのです。その言葉に従った結果、グラハムは家族の危機的状況に突破口を開きます。そして、それまでは単なる偶然だったものが、グラハムの心の中で必然へと変化していくのです。

 メリルがメジャーリーグに行かず、記念のバットを壁に飾っていたのは、そのバットで宇宙人を攻撃するためであり、ボーが飲み掛けの水を部屋中に置いていたのは、宇宙人の弱点である水を武器として蓄えておくためです。コリンが事故に遭って亡くなったのも、このことを伝え家族を守るためだったのです。そして、その事実を、グラハムも理解しています。毒ガスをかけられ呼吸していないモーガンを抱きしめながら、「発作はこの為だ。運なんかじゃない。気道は塞がってた。たから、毒は入ってない。絶対入ってない」と言うのです。そして、グラハムの言葉の通り、モーガンは毒を吸い込んではおらず無事意識を取り戻します。喘息という病気すらが、命を救うために用意されたものだったのです。

 コリンが言った言葉ように、起こったことは、やはり偶然ではなく運命なのです。そこには、幸運へと導く何者かの意志が存在しているのです。そして、その隠された意志の表れこそがサインです。飾られたバット、水の入ったグラス、喘息の発作、起こるはずのなかった交通事故、それらのすべてが運命の片鱗を垣間見せるサインなのです。

それは何者の意志なのか?

 それでは、その何者かとは誰なのでしょう。地下室のシーンで、発作の起こったモーガンを抱いたグラハムは、「もう奪うことはできんぞ。あんたが憎い。あんたが憎い」と言います。そして、運命を受け入れ、モーガンが助かった後には「助けてくれたの?」というモーガンの疑問に対して「誰かが助けてくれた」と言って感謝を示すのです。そして、映画の前半で「一つ目のグループは、幸運や偶然よりそれ以上のものをサインだと考える。誰かが何かが見守ってくれている証拠だと思うんだよ」とも言っています。

 特定の名前を出しているわけではありませんが、そこで語られる『誰か』や『あんた』と言われる存在は同一で、運命、ないしはそれを生み出している存在、グラハムにおいては『神』を指し示しています。「誰かが助けてくれた」と、誰かの存在を受け入れたということは、グラハムが二番目の人々から、一番目の人々に態度と立場を変化させたことを表しています。つまり、グラハムは、誰かが、何かが見守ってくれている確信を得たのです。それは、失っていた信仰を取り戻すための確証を得たということです。偶然とみなしていたバラバラの出来事の中に、運命と呼べる必然を、そしてそれをもたらしてくれている誰かという存在の片鱗を見出すことになったのです。

信仰告白

 それこそがサインというタイトルの指し示す意味です。あくまでも映画の中の出来事だと言われてしまえばそれまでですが、グラハムはサインを見出し、『誰か』を意識すことで信仰を取り戻します。

 そして、この記事では、失った信仰を取り戻すために、この映画の内容を参考にしました。つまり人生に深い影響を与えるような幸運な経験をしたとき、そこにサインを見出せば良いのです。そして、一度でもサインを見出すことができれば、出来事のすべてが偶然であるという固定観念を手放し、必然的な意味を獲得することができるようになります。

 それは運命と呼ばれるものです。そうすれば、その紡がれた運命の背後に、『誰か』の存在を意識するようになることでしょう。それこそが、新たに獲得した信仰なのです。浮ついた思い込みではなく、それは体験と実感を基礎とした、揺るぎない信仰なのだと思います。

始まりの記憶

 僕は、今まで信仰を持たないと言ってきました。しかし、この映画を観た後では、本当にそうなのだろうかと疑問を持つようになるのです。特定の宗教を信仰していないだけで、実のところ信仰は持っているのではないかと思うようになるのです。

 序盤の台詞の中で、『幸運な経験をした時に、一つ目のグループは幸運や偶然より、それ以上のものをサインだと考える』と、グラハムは語っています。その幸運な経験とは、映画の中では、偶然により宇宙人から家族を救うというものでした。それこそ人生を左右する幸運です。その結果、偶然は必然的運命になり、その運命を導き出した『誰か』の存在と意志を意識し、信仰を取り戻すことになるのです。

 僕にも、このような人生を転換させるような幸運な経験があるのです。それは、『始まりの記憶』という記事で書いたことですが、その記事に書いた二度目の体験です。

 その体験の後、その経験は僕の人生を大きく変えてしまいました。その体験は僕に生きていく上での、知恵や価値をもたらし、掛け替えのないものになりました。その経験がなかったら、僕の人生は成り立たないというほどのもので、振り返れば、明らかにそれ以上はないであろう幸運な経験でした。そして、更に振り返ればその体験に辿り着くための道のりは、すべて偶然によって成り立っていたのです。その偶然が一つでも欠けていれば、絶対的に必要な必然的体験には辿り着けていなかったのです。受け入れ難く不愉快な経験までもが、その体験に辿り着くための必然として、肯定されてしまっているのです。つまり、偶然など存在していないのです。そこには絶対的に幸運な経験に到達するための、運命があるばかりでした。

 その気付きの後、僕は日々の生活の中に、運命の片鱗とでもいうようなサインを探すようになりました。そしてその運命を紡いでいる何者か、つまりグラハムのいう『誰か』の存在を意識するようにもなったのです。その『誰か』は、人格を持っている訳ではありませんが、人智を超え、すべてを統べる存在です。

 偶然の中に、サインを見出し、『誰か』の存在を意識することが信仰であるなら、特定の宗教は信じていなくとも、確かに僕は信仰を持っているのだと思います。そして、多くの人々が、信仰を取り戻すことができるのではないかとも思うのです。

 そのような信仰の形であれば、もう失われることはないのです。そして、既存の宗教の枠組みの中にあっても、この信仰は機能するだろうと思います。グラハムが『神』という言葉を使わずに、信仰心を取り戻せたように、それらの違いは表現の違いと受け止めることができるかも知れません。なにしろ体験と実感を基礎としているのですから、根拠を失った狂信や、驕り高ぶる科学ですらが、それを連れ去ることはできないのです。

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