サイン = 信仰のレコンギスタ 1

レビュー
Screenshot

 前回、『宗教は、ペテンかアヘンか?』という記事を書きました。信仰を失った宗教家と信者のお金を中心とした批判的記事ですが、その状況を改善する方法はないものでしょうか。その記事の中で、僕は御守りや祈祷など、金銭を伴う宗教活動を批判しています。つまり、効果に対して根拠のないことに、対価としてお金を要求し支払う経済に疑念を感じているのです。

失われたもの=信仰

 ただ、宗教組織にも組織を維持する必要がありますし、信者の方にも藁にも縋りたいという事情があります。つまり、宗教活動にお金が関わることを、すべて否定するつもりはありません。効果に根拠のないことに対する、お金の遣り取りを批判しているのです。さらに、その根拠というのも、科学的なものを指すつもりはありません。科学で救えない人を救うのが、宗教なのですから。それではお金をやり取りする根拠というのは何でしょうか。それはもちろん信仰です。両者に信仰があれば良いですし、少なくともお金をもらう側に信仰はなくてはならないものではないかと思うのです。そうでなくては詐欺にあたってしまう思うのです。

 しかし、科学の発展した現代社会では、揺るぎない信仰を持つことはますます難しくなってきていると思います。科学と宗教が否定し合い、共存するのが難しいのです。ニーチェも『神は死んだ』と言っています。例えば、お坊さんがお腹が痛くなったとしても、祈祷してもらうのではなくおそらく病院に行くことでしょう。つまり、多くの場面で信仰は揺らいでしまっているのです。

 失った自信を狂信で埋め合わせる程度しか、人々には救われる方法がないのでしょうか。おそらく、宗教自体が大きな変化を受容しなければいけないのですが、それが何なのかを今のところ知ることはできないですし、現行の宗教を上書きするような壮大な話ですので、もう少し身近な方法で信仰を取り戻すことはできないのかを考えていきます。

信仰を取り戻すために=サイン

 考えると言っても、信仰を持たない僕の話を聞いても仕方がないと思うので、参考にできるものを紹介していきます。それはM・ナイト・シャマラン監督、2002年公開の映画、『サイン』です。今回は、その映画のレビューをしながら、失った信仰を取り戻すことはできるのか、その方法には何があるのかを探っていきたいと考えています。もちろん、ネタバレ全開ですので、ここからは映画を観てからお読み下さい。Amazonプライム・ビデオ、Disney+では追加課金なしでご覧頂くことができます。

家族構成とミステリーサークル

 映画は、夕闇の持つ予感のような、不安な雰囲気から始まります。観客は、信仰を失った元牧師のグラハム・ヘス(メル・ギブソン)、その弟であるメリル・ヘス(ホアキン・フェニックス)、グラハムの長男であるモーガン・ヘスと、娘であるボー・ヘスの生活に、いきなり投げ込まれます。まったく説明もされないまま、幾つもの家庭の事情が現れて、観客は映画の中に引き込まれていくことになります。

 その家庭の事情をある程度書いておくと、主人公のグラハムは元々牧師であったが、妻の事故死により信仰を失い今では牧師を辞めています。弟のメリルは優れた野球選手ではあったのですが、メジャーリーグには行けず、妻を失い憔悴する兄と同居をしています。長男のモーガンは喘息で、定期的に薬を吸引し、発作が悪化した場合は注射をしなければ気道が詰まり窒息してしまう可能性もあります。娘のポーは水を飲む度に、何かと理由を付けては飲み切らないまま放置します。

 ある朝、家族はトウモロコシ畑にミステリーサークルを発見します。草を押し倒すことにより、幾何学模様を描いたもので、宇宙人からのメッセージだとされ、数十年前に世界的に流行った悪戯です。もちろんグラハムはそれを悪戯だと考えます。しかし、そのミステリーサークルは他の場所にも現れ、世界的な広がりを見せていきます。

 映画の宣伝や解説では、そのミステリーサークルが宇宙人からの『サイン』であるとされ、映画のタイトルの『サイン』の指し示している意味であるとされている場合があります。しかし、これは意図的に仕組まれたミスリードです。つまり、宇宙人のもたらしたミステリーサークルではないサインが劇中に存在し、それはタイトルにせざるを得ないほどこの映画において重要なものなのです。映画はは、それが何なのか、誰からのものであるのかを徐々に明らかにしていく建て付けになっています。

鍵になる台詞

 それが何かを知るために、重要な台詞があります。それは、各地の空に現れたUFOの映像を観ながら、グラハムが弟のメリルに言う台詞です。

「人は二つのグループに分かれる。幸運な経験をした時に、一つ目のグループは幸運や偶然より、それ以上のものをサインだと考える。誰かが、何かが、見守ってくれている証拠だと思うんだよ。二つ目はただの運だと見る人。運が良かったと見る人。二番目の人々はこの十四の光を、疑いの目で見ている。彼らには五分五分の状況と言えるな。悪いことか良いことか。が、内心では結局頼れるのは自分だけだと思っている。だから恐怖で一杯だ。サインや奇跡を信じる人間か。ただ運が良いと感じる人間か。こう言い換えても良いだろう。この世に偶然など存在しないのかと」

 これと呼応する台詞が、もう一度、同じグラハムの口から語られることからも、この台詞がいかに重要なのかを知ることができます。要約すれば、幸運なことが起こった時、偶然以上の何者かが自分を見守ってくれているサインだと思うタイプの人、ただ、運が良いと感じるタイプの人間の二種類が居るということです。そして、見守ってくれる何者かの居ない二番目の人は、頼れるのは自分しか居らず、心は常に恐怖で一杯なのです。自分以外の何者かは居ないのですから当然一人ですし、一人ですべてをこなさないといけないのなら、不安と恐怖で一杯なのも当たり前です。

 そんな兄の言葉に、メリルは「兄さんはどっちだよ」と尋ねます。その問いに対して、グラハムは「誰も見守ってなどいないんだよ。自分しかいない」と答えます。つまり、現在のグラハムは、二番目の人間であると言うのです。頼れるのは自分しか居らず、心は常に不安で一杯な人間です。

 グラハムが、その様な人間になった経緯は、すぐ後に続くシーンから推測できます。グラハムの妻は交通事故に遭って亡くなりました。牧師の服を着たグラハムが事故現場に駆けつけます。その時、妻のコリンは居眠り運転の車に轢かれ、瀕死の状態にありました(ちなみに、この車の運転手を演じているのが、監督のM・ナイト・シャマランです)。駆け付けたグラハムに対し、コリンは「モーガンに遊んでと言って、羽目を外して良いって。ボーには、兄ちゃんの言うことを良く聞くようにって」と最後の言葉を伝えていきます。そして、言葉がグラハムとメリルに向けられたとき「グラハムには、あの人には『見て』と伝えて。メリルには『フルスイングして』と言うのです。子供達に向けられた言葉に対して、それらはあまりにも無意味な言葉でした。それに対して、グラハムは「死の間際に神経が刺激されたんだろう」と判断します。映画の中の時系列に従ってシーンを並べ直すと、それ以降のシーンで最後のシーンまでは、牧師の服を着ることはありません。つまり、このことによって、グラハムは信仰を失い。頼れるのは自分しか居らず、心は常に不安で一杯な二番目の人間になってしまったのです。

宇宙人の襲来

 宇宙人の目撃情報が次々ともたらされ、グラハム自身も宇宙人と遭遇します。それまでは懐疑的だったグラハムも状況を受け入れない訳にはいかなくなります。ミステリーサークルは地球に侵略するときの目印として記されだということや、宇宙人の目的が侵略ではなく地球人を食糧とするための狩であることも判明してきます。毒を吹き掛け捕獲し、宇宙船に連れ去っていくのです。

 ヘス一家は湖の周辺に逃げるか、家に立て篭もるかを話し合い、家に立て篭もることを選択します。グラハム達は、襲撃に対抗する準備を進めていきます。なにしろ、ミステリーサークルの記されたヘス一家は、必ず宇宙人に襲われることになるのです。立て篭もりながら、一家は、特にグラハムは精神的に追い詰められていきます。その過程は、変容の起こる心の深淵に、無理矢理突き落とされるようでもあります。そして、ついに、宇宙人はヘス一家にも襲い掛かろうとするのです。

 ちょっと長くなってしまったので、記事を二つに区切ります。続きは、『サイン = 信仰のレコンギスタ 2』をお読み下さい。ここから、映画はクライマックスです。

コメント

タイトルとURLをコピーしました