ぼくは 自転車

こころ

ぼくは、自転車。

ずいぶん前に、おじさんにもらわれ、それからずっとおじさんと暮らしている。

おじさんの生活はたんじゅんで、市からもらったせいそうの仕事をして、アパートで一人ぐらしをしている。

部屋のドアの前には、いつもぼくがいて出番を待ちかまえていた。

ドアのむこうで、おじさんがカギのたばをつかむ音がしたとき、ぼくの胸は踊るんだ。

ぼくは、おじさんのことが大好きだった。

毎日のつうきんも楽しかったけれど、休みの日にはいろんなところに一緒に出かけた。

いろんな自転車や、人や、ものと知りあいになった。

ぼくは自転車でしゃべれないけど、ぼくの世界はおじさんの世界と同じ広さになった。

ぼくがケガをしたとき、おじさんは病院に連れていってくれた。ぼくは新品みたいに綺麗になった。おじさんといっしょなら何だって大丈夫だって感じた。

おじさんには一人だけ友だちがいた。その人は、もう一人のおじさんだった。おじさんはその人のことを、『おさななじみ』って言っていた。

たまに会っては、少しだけ話をして帰っていく。ずっとながめていたけど、友だちって何が楽しいんだろう。

しばらくして、おじさんは、もう一人のおじさんと会わなくなった。けんかしたのかと思ったけれど、それは違った。

まっ黒な服を着て、おじさんはもう一人のおじさんの家に行き、帰りはぼくを押しながら帰った。ぼくに乗るほど元気がなかった。

「酒ばかり飲んでたから、あいつはバカだ。大バカものだ。オレより先に死ぬなんて大バカだ」

おじさんは、もう一人のおじさんの悪口を言った。悪口を言いながら、どうしてそんなに泣いているのかが、ぼくには分からなかった。

それからおじさんはあまり出歩かなくなった。どんどん痩せていくし、もう笑わなくなった。きっと病気なんだって思った。

ぼくは近所の犬に相談してみた。昔は元気だったのに、最近ではどんどん元気がなくなり、今では飼い主さんが居るとき以外はずっと寝て過ごしていた。きっと彼も病気なんだと思ったからだ。

「おいおい、これは病気じゃない。オレは、歳をとったんだ。歳を取らないものは誰も居ない。お前だって歳を取って、ずいぶん錆びてしまっているじゃないか」

「もっと歳を取るとどうなるの?」

「自分が、消えてしまうんだ。だからそれまではずっと一緒に居たいんだ」

犬さんのまっ黒な瞳に映し出されているのは、ぼくの姿ではなかった。

それでも、おじさんをなんとか元気にしてあげたかった。前みたいに、おじさん一人では行けない遠くまで、連れ出してあげたいと思った。

でもそれは難しくなった。おじさんは倒れて病院に運ばれることになった。おじさんはずいぶん長い間、アパートに帰ってくることはなかった。

悪いことばかりではないはずだった。ぼくがそうだったみたいに、病院から帰ってきたおじさんは、こわれた部品を新品に交換し、すっかり元気になっているはずだった。

「期待しすぎないほうが良い。もっと自分のことも心配したほうが良いと思うぜ」

近所の野良猫は言った。どうしてそんなことを言うのか、悲しくなった。でも、それは真実を見つめる眼差しだった。

残念なことに、病院から戻ったおじさんが、新品に交換されている様子はなかった。それどころか、片足を少し引きずって歩いているように思えた。

おじさんと市役所の『たんとう』という人は、保護の話や、デイサービスというものの話を、ずいぶんと長い時間していた。

「どうもありがとうございました。これからよろしくお願いします」

そう言うと、おじさんは開いたドアの内側から、向きあうたんとうさんに頭を下げた。

「ところで、この自転車、こちらの方で処分しておきましょうか。さすがにもう自転車に乗ることはできないです。もしかすると少しお金になるかも知れませんから」

そう言うと、たんとうさんは、ぼくの方を指さしていた。

頭の中がまっ白になった。

もう一人のおじさんに起こったこと、年老いた犬さんに起こるだろうこと。それが、ぼくに怒ろうとしているのだということが、理由もなく分かった。猫さんはこのことをぼくに伝えようとしてくれていた。

ぼくはとても慌てた。誰かに助けて欲しかった。でも、自転車だから助けをもとめることもできない。ぼくはおじさんを見つめた。

おじさんは下を向いて、たんとうさんと顔を合わせることはなかった。おじさんはとても小さな声で、でもとても確かな言葉で話し始めた。

「こいつとはずっと一緒だったんです。仕事にも行ったし、買い物も行った。写真の貼り付けられた床屋にも行った。雨の降る夜の街に繰り出したこともある。もう何も失いたくないんだ。こいつはオレの友達なんです」

心が堰を切ったように溢れ出す。

おじさんが、たんとうさんに顔を向けることはなかった。うつむいた顔をぼくの方に向けると、涙の滲んだ眼差しでぼくを見詰めた。まっ黒な瞳の中には、ピカピカのぼくの姿が映し出されていた。

「申し訳ありませんでした!」

たんとうさんは、おじさんに向かって深々と頭を下げた。名前以外はとても普通の良い人だった。

ぼくは、自転車。でも、もう二度と誰かを乗せて走ることはないと思う。

まるで手押し車のように、ぼくを支えにして、おじさんは一日二回散歩をした。

「まるで犬の散歩だな」

塀の上から、いつもの猫が微笑んでいた。

おじさんはおじいさんになり、いろんなことをぼくに話してくれるようになった。ぼくはうなずくことぐらいしかできなかったけど、友だちの支えに成れていることが嬉しかった。

いつか消えてしまうその日まで、ずっと一緒に居たいんだ。

おしまい

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