過去に、僕は『一瞬で幸せになる方法』という記事を書きました。詳しい内容はその記事を参照して頂くとして、ここでは概要だけ抜粋しておきます。
幸せと不幸は相対的なものであり、不幸を作り出しているのは幸せであり、幸せを生み出しているのは不幸であるということを知ることにより、否定し合うだけの相対関係を、それぞれがそれぞれを成立たせ肯定し合う相乗関係へ変化させよう。そして、最終的には、その相乗関係からも脱しようというものです。それでも苦しみを感じてしまう人には、苦しみは幸せをもたらすための助走に過ぎず、『苦しみは幸せの積立預金』とみなすようにとも書きました。
最終的にはその方法を理解して頂きたいのですが、今回は少し違った方向性で苦しみへの対処法を書いておきます。
苦しみの相談にのって
先日、友人から健康関する相談を受けました。もちろん僕は医者ではないし、その友人は既に複数の医師から診断を受けていましたので、自分の苦しんでいる状況に対する愚痴程度の相談です。
もちろん、『一瞬で幸せになる方法』に書いた内容を含めてのアドバイスにはなったのですが、その友人にはもう少し違う角度からお話をさせてもらいました。今回は、その違う角度に付いてお話ししたいと思います。ちなみに、この違う角度は、『神話の力』という書籍の中で、ジョーゼフ・キャンベル氏が語っていた内容のコピーだと思ってもらっても構いません。
個人の病気のことなのであまり詳しくは書かないですが、命に関わる病気ではないが、完治するようなものでなく、ある程度は必ず日常生活に支障を及ぼします。ショックを和らげるために、数人の知人に話を聞いてもらったそうで、中には『その位の病気でまだ良かったのよ。もっと辛い病気で苦しんでいる人も居るんだから。これからは歳を取っていくだけだから、身体に問題は必ず出てくる。それは若い頃のように復活することはない』と言われ、とても救われたそうです。夢も希望もないアドバイスですが、だからこそ友人は救われたのだと思います。
先ず、ここには比較による相対的価値感の転換が含まれます。友人よりも症状の重い仮定の誰かを設定することにより、相対的に友達の症状を軽くしています。そして、未来への期待を減らすことで諦めという覚悟を作り、将来への不安も減らしています。とても良いアドバイスだと感じます。それだけで、十分だとも思ったのですが、僕は苦しみの持つ価値を伝えてみました。
友人の知人の話では、苦しみは苦しみのままです。だからこそ、苦しみは幸せと相対関係を築き、最終的に相乗関係を導き出せるのですが、そもそも苦しみは、幸せの訪れを待たずとも、それ自体で、価値を持つものなのではないのでしょうか。
苦しみの価値
若い頃の苦労は買ってでもしろと言いますが、不愉快にしか思えない苦しみも、お金を払って買うだけの価値があるということです。つまり、幸せを待つまでもなく、不幸自体が価値を持つのではないのかということです。
ある程度の年齢を生きてきた人なら、耐え難い苦しみや不幸に一度は出会ったことがあるのではないでしょうか。それは、個人の主観的判断で構いません。その時、あなたはどうしたでしょうか? その苦しみから逃れようと必死にもがいたのではないでしょうか。問題を洗い出し、解決法を見出そうとしたはずです。そして、多くの人は何らかの発見をします。何も獲得しなかったという人も、苦しみと向き合うという態度は獲得したはずです。そして、その獲得したものの価値と量は、苦しみの大きさと困難さに比例します。より大きな苦しみを乗り越えるためには、より多くの力が必要になります。
ここで怪物と戦う英雄の姿を思い浮かべて下さい。自分より弱い怪物と戦って勝ったとしても、英雄は成長しません。英雄は、自分より強い怪物と戦ったときだけ成長し、強くなることができるのです。そして、向き合う怪物が強ければ強いほど、勝利した後に獲得する力は強くなるのです。強い相手に勝ったということは、あなたの能力がその怪物を上回ったということなのです。
例えば、アニメのドラゴンボールのストーリーを思い出して下さい。悟空は、自分より強い相手と戦い勝利することで、より強い力を手に入れます。それは、戦った相手の力を手に入れるのと一緒です。戦う相手が強ければ強いほど、獲得する力は強くなるのです。それが、苦しみの持つ、あなたにとっての意味と価値です。
怪物は、あなたの人生に立ちはだかる不幸と苦しみの例えでした。そうであるならば、英雄とはあなたです。つまり、あなたが苦しみや不幸と向き合い、もがき、そしてそれを乗り越えたとき、あなたはあなたを脅かしたその力を、既に自分の力としているのです。そして、あなたの感じた不幸や苦しみの力は、今度はあなたを助ける仲間として働いてくれるのです。昨日の敵は今日の友というか、ベジータが仲間になって、一緒にフリーザと戦ってくれるようなものですね。
これが、苦しみや不幸が、あなたの成長にもたらしてくれる価値です。それでは幸せはどうでしょうか。いざ、個人の成長に限っては、幸せは大した価値を持ちません。あなたが幸せなとき、あなたはその状況に留まろうとすることでしょう。それは表現を変えれば停滞です。そこに成長はありません。胎児が究極的な幸福である母の子宮に留まり続けようとするのなら、そこに成長はないのです。胎児は、永遠に胎児のままです。それ以外の幸福の形を知ることもできない訳です。それでは人間にすら成れていないのではないのでしょうか。
しかし、そのような状況は、現実には起こりません。母体には陣痛が起こり、胎児は産道を通り、究極的な幸福から追い出されます。この狭い産道を通り、外の世界を強制されるのが、人間が初めて経験する苦しみだろうと思います。つまり、苦しみは人としての成長の始まりなのです。いかに、不幸や苦しみが価値を持つかが分かっていただけることでしょう。
苦しみに負けてしまったら
それでは不幸や苦しみに、負けてしまった場合はどうでしょうか。まあ、不幸や苦しみには、こちらが逃げ出さない限り完全に負けてしまうことはありません。時間が経てば、いつか必ず解決します。唯一、負けと言って良い状況は逃げ出し、その経験自体を否定してしまうことです。例えば、虐めにあった経験や、許されない罪を犯した経験などを無意識に押し込め、都合良く無かったことにしてしまう場合です。
ジョーゼフ・キャンベル氏は、『どんなに苦しくともその苦しかった経験を否定し、無かったことにしてしまってはいけない。もし、無かったことにしてしまえば、あなたの人生はバラバラに分解してしまうことだろう』と言っていました。この言葉の意味はどういうことでしょか。
ジグソーパズルをイメージしてみて下さい。不揃いの小さなピースをはめ込むことで、一枚の絵画や写真を完成させるパズルです。一つのパズルの中にも、スイスイはめ込める簡単な部分と、なかなか上手くいかない難しい部分があるはずです。もし、あなたが簡単な部分だけを済まし、難しい部分を放棄してしまったらどうでしょうか? そのパズルは完成したといえるでしょうか? いいえ、それを完成したとは言いません。例え、はめ込まれていないのが、たった一つのピースであったとしても、それは完成ではないのです。すべてのピースをはめ込んで初めて、パズルは完成品へと姿を変えるのです。
つまり、それがあなたの人生です。ピースが一つでもはまっていなければ、あなたの人生はバラバラな小さな出来事の断片に過ぎなくなります。すべてのピースがはまったときだけ、バラバラだった出来事は、初めて人生という一つの作品に成ることができるのです。どんな辛い経験であっても、それはあなたの掛け替えのない人生であり、あなた自身の一部なのです。
苦しみの役割
ところで、ジグソーパズルを完全させ、一つの作品を作り上げた後、あなたはどうされるでしょうか? しばらくは、完成させたことに満足感を感じ、ぼんやり眺めているかも知れません。しかし、完成させたことに満足感を感じたのであるなら、もう一度ジグソーパズルを作ってみようと思うはずです。そうして、お店に買いに行った時、あなたはどのようなジグソーパズルを選ぶでしょうか? より簡単なパズルか、同じ程度の難度か、より難しいものか、どのジグソーパズルを選ぶのでしょうか。
おそらく多くの方は、より難しいパズルを選ぶことだろうと思います。何故なら、パズルは難解な問題をクリアしたときの満足感を得るためのものだからです。より大きな満足感、達成感を得たいなら、より難しいパズルを完成させなければならないのです。
そして、僕はジグソーパズルを人生に例えています。つまり、ジグソーパズルを選ぶ過程は、あなたの人生を選ぶ過程と同じです。もしそうであるなら、あなたの苦しみに満ちた人生は、あなたが選んだものなのです。そして、あなたの人生が困難なものであればあるほど、それはあなたの期待した通りの人生なのです。何故なら、その難解な人生というパズルを完成させたとき、最高の満足と達成感を得ることができるからです。
あなたを成長させ、あなたの人生に最高の価値をもたらしてくれるもの、それがあなたがいま直面している苦しみの役割になります。

コメント