◯と✕の象徴的意味について、少し考えてみたいと思います。『えっ? マルは正解、バツは不正解でしょ?』と思われるかと思いますが、それだけではないのです。象徴的意味を掘り下げていけば、違った意味を読み取ることができるのではないかと思うのです。ただ、掘り下げれば掘り下げるほど無数の意味が現れるかとも思います。◯や✕という象徴は余りにも大きく、様々な意味を含んでいるからです。ですからやはり、ここでのお話は『僕の思う◯と✕』という見解に留まるものではあります。
◯とは何か?
◯に関して、このブログ記事でも何度も取り上げていますが、一言で言うなら永遠の象徴です。もう少し説明を加えるなら、閉じられた直線とも言えます。つまり、直線の端と端を摘み上げ繋ぎ合わせれば、◯になるのです。これは、自分の尻尾を食べて成長を続けるウロボロスの蛇の象徴的意味と同じことを表します。
ただ、直線を◯に変えるためには、端と端を摘み上げ繋ぎ合わせる必要があります。向かい合う端と端は相対的関係にあります。目の前に引いた一本の線を例に例えれば左と右、時間の流れに例えれば過去と未来、始まりと終わりということになります。
それらは、相反する関係にあるのです。本来は反発し合う特性を持つ相反する二つのものを、一つにするのが悟りです。何故、そのようなことが悟りによって可能なのかは過去に説明していますし、これからも説明し続けると思うので今回は少し休憩します。途中を端しょった結果だけで言うので乱暴ですが、◯は対立する二つのものが一つになった状態で、時間の流れに当てはめれば永遠で、哲学に当てはめれば真理で、存在に当てはめれば実在です。
✕とは何か?
それでは✕とは、どのような意味を象徴として持つのでしょうか。実のところ、✕の持つ意味は◯と同じです。それもまた永遠であり、実在であり、真理です。それは、やはり相反する二つのものが一つに交わり合うものだからです。直線は交わる部分に中心を持ち、直線の端と端、縦線と横線 二重の意味で相反する二つのものはそこで一つに統合されます。◯は円周から中心を推測させ、✕は中心から周辺を予測させます。
それでは何故、✕には否定的な印象が付きまとうのか。それは○が肯定的な印象を持ち、世界が二元性によって成り立っているからです。◯が肯定的な意味を与えられてしまう以上、二元性の世界でその対極に置かれざるを得ない✕は、否定的な意味を担わされることになります。
しかし、やはり✕もまた◯と同じか、それ以上に肯定的な意味を表現する場合もあります。例えば、キリスト教における十字架です。十字は立てられた✕と考えられると思っています。そして、十字がキリスト教において重要なシンボルであるのは、イエスが極刑に処されたからだけだと思っていません。それは、相反する二つのものの結合であり、聖なる結婚・ヒエロス・ガモスを象徴しているからです。ちなみに、僕は『悟りとは何か? バージョン1.1』という記事の中で、梵我一如と不二一元論の関係を説明するのに十字のイメージを使っています。
沖縄には、ハジチ(針突)と呼ばれる入れ墨の風習がありました。結婚・成人を示す通過儀礼、魔よけ、子孫繁栄など様々な意味合いがあります。地域によって様々な文様があり、代表的なものが十字や✕です。ここでは十字と✕は同等に描かれ、共に肯定的な意味を持ちます。結局のところ、✕もまた◯と同じく究極を表します。そこに比類するものは存在しません。何故なら、それは独存するものだからです。
コメント