ルックバック ーなぜ描き続けるのかー

レビュー
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 チェーンソーマンで人気の藤本タツキ原作の劇場アニメ、ルックバックを観てきました。上映時間58分、鑑賞料金・一律1,700円です。おまけに、入場者特典として作品のネーム全ページを収録した冊子が一冊もらえます。まあ、特典が凄いのは食玩具でも良くあるし、一律1,700円というのも大人だけにターゲットを絞れば安くなっているわけで有難い。

 ただ、上映時間、58分というのは何なんだ? ハリウッド大作である『インディ・ジョーンズと運命のダイヤル』は2時間34分、『アバター:ウェイ・オブ・ウォーター』に至っては3時間20である。さらに同時期に劇場公開していた『マッドマックス:フュリオサ』は、2時間28分。ちなみに、制作費は、いろんな算出方法はあるが、だいたい270億円程度。これでもだいぶ安い方だと思われます。

 そもそも58分という時間の中で、ちゃんとしたドラマが成立するのかということからして疑わしい。ただ、そこは藤本タツキ原作ということで、思い切って観に行ってきました。観終わった後、観る前の不安はすっかり消えてしまっていました。2時間の映画を観たのと同じぐらい満足していましたし、それ以上に心を動かされました。そう言う訳でここから先は、ネタバレアリでレビューします。まだ観てない人は、ブラウザバックで映画を観てからもう一度お越し下さい。

 それと、レビューに入る前に触れておきたいのですが、原作と同じくらいアニメーションが素晴らしい。どうやら、押山清高という人が監督をしているらしいのですが、繊細な心の機微を、大胆に表現します。藤本タツキはシンプルな線で、複雑な内面を表現できる作家だと思いますが、この監督はその線プラス動きで観客の心に迫っていきます。宮崎駿とも、新海誠とも、庵野秀明とも違う動きをします。

 主人公の藤野が京本に褒められ、田舎のあぜ道を大きく腕を振りながら走るシーンがありますが、違和感のない程度にデフォルメされた動きが、藤野の喜びを観ているこちらにも共有させてくれます。走っているのを観ているだけで泣いてしまっていました。それではレビュー、始めます。

自分のために

 物語は、小学四年のクラスで学年新聞の配られるシーンから始まります。新聞には四コマ漫画が掲載されており、それを描いたのがこの映画の主人公である藤野という女の子です。藤野の描いた漫画は多くのクラスメイトから絶賛されています。この時称賛するクラスメイト達に対して「5分で描いたけどな」など虚勢を張った答えを返します。この時点での藤野は、少しばかり他人より得意なことを良いことに、思い上がりとプライドを満たすため、つまり自分の為に漫画を描いているのです。

 それからしばらくして、藤野は職員室に呼び出され、漫画の掲載枠を隣のクラスの京本に一枠だけ譲ることを先生から頼まれます。京本は隣のクラスの不登校の少女で、学校には来れないが漫画を描いてみたいと希望しているのです。藤野は掲載枠を譲ることを承諾しますが、この時点では京本のことを「素人」と呼び、明らかに見下しています。

 ところが、京本の漫画が掲載されると、状況は一変します。京本の圧倒的な画力に、クラスメイトの賞賛は藤野から京本へと移っていきます。その事実に藤野は猛烈に嫉妬し、そこからは取り憑かれたように漫画を描くことに没頭していきます。ここから藤野は、京本への嫉妬に駆られて漫画を描いていくのです。ただ,やはり藤野はそれでも自分のために漫画を描いているのです。そして、その状況はずいぶん長く続きます。

 再び状況が変わるのは6年生の半ばになった頃のことです。新しい学年新聞が教室に配られます。そこには藤野と京本の漫画が、競うように掲載されていました。夏祭りの様子を描いた京本の圧倒的な画力に触れた瞬間、藤野は「や〜めた」と言う言葉と共に漫画を描くことを止めてしまいます。どう頑張って努力したところで、京本には勝てないことを悟ったのです。ここまで藤野は自分のためにだけ漫画を描き努力し続けてきたのです。そうであるなら、自分のために描くことを止めるのも容易いことなのです。

求めてくれる誰かのために

 6年生を終えた藤野は再び職員室に呼び出され、学校に来ない京本に卒業証書を渡すことを頼まれます。渋々引き受けた藤野が京本の家を訪れると、呼び掛けに返事はなく玄関のドアには鍵が掛かっていませんでした。家の中にはまったく生活感がなく、人の気配すらありません。それは、どこか現実の世界ではないような印象を受けます。さらに奥に進むと、藤野は廊下の両側に山積みにされたスケッチブックを発見します。それは、京本という少女の痕跡であり、扉の向こうが京本の部屋であることを示しています。スケッチブックの上には、コマ割りだけされ、描き込まれていない四コマ漫画用の紙が置かれていました。

 その紙に、藤野は即席の漫画を描き込みます。一コマ目は「出てこないで。出てこないで」という人々の絵。二コマ目は「出てこい。出てこい」という人々の絵。三コマ目は「京本、引き篭もり選手権」という絵。四コマ目は、京本が死んで、骸骨になっている絵です。腹立ち紛れの悪戯で描いただけだったのですが、四コマ漫画を描いた紙は偶然藤野の手から溢れ出て、ドアの隙間を抜け、京本の部屋に紛れ込んでしまいます。部屋の中に入ってしまった四コマ漫画を、藤野が取り戻すことはできません。それは、引き篭もっている京本を揶揄する内容だったのです。自分の犯したミスに慄き、卒業証書を置くと藤野は慌ててその場を後にします。ところが、逃げるよに立ち去ろうとする藤野の背中に、「藤野先生!」という声が掛けられるのです。

 それが、すれ違いながらも切磋琢磨し続けた藤野と京本の出会いでした。靴を履くこともできず夢中で飛び出してきた京本は、藤野に対して思いの丈をぶつけます。どれほど藤野の漫画素晴らしいか、どれほど自分が藤野のファンであるのか、着ていたドテラにサインをもらい、細かな内容に触れながら藤野のことを絶賛していきます。そんな京本は藤野に対し、「どうして、漫画を描くことをやめたんですか」と尋ねます。勝気な藤野はその質問に対して「漫画の賞に出す話考えてて、ステップアップするために止めた」と答えます。その答えを聞いた京本は目を輝かせ「見たい、みたい,みたい,みたい」と何度も懇願するのでした。平静を装い別れを告げた藤野は、家までの途中の畦道を大きく腕を振り全身から喜びを漲らせ飛び跳ねるように帰っていきます。これが冒頭でも紹介したシーンです。熱烈なファンを得て、期待されることが嬉しかったのです。この出会いの後、結果的に、藤野は一度は諦めてしまった、漫画を描くということを再開することになるのでした。

そんなはずない。止めてくれ!

 ここからしばらくは蜜月期とも言うべき期間が始まります。中学生になった藤野と京本は、共同で漫画を描き始めているのです。そうして仕上がった漫画は準入賞を果たします。それからも二人で描いた漫画はとんとん拍子に掲載され、ついには高校卒業を機に連載を持つことを編集者から提案されます。その提案は待ち望んでいたものであるはずなのに、重なり合っていた二人の人生を引き離していくことになります。その提案の少し前に、京本は美しい風景画を観て、内心では絵画の道を志すようになっていたのです。引き篭もりで藤野に頼り切りだった京本は、自分一人で生き美大に通うことを決断し、藤野は京本ではないアシスタントを雇い売れっ子作家への道を駆け昇っていきます。こうして二人が下した別々の選択は、二人を別々の人生に運び、物語を予想外のエンディングへ導きます。

 京本は山形の美大に通い、売れっ子作家になった藤野は都会のビルの一室で電話をしています。二人の状況は対照的に描かれています。社会的に成功しているのは藤野ですが、充実した生活を送っているのは京本のようにも思えます。藤野はおそらく担当編集であろう人物にアシスタントの愚痴を言います。その愚痴は要領を得ないものです。それもその筈です。藤野が不満なのは、彼女自身も気付いていませんが、そのアシスタントが『京本ではない』ということなのです。追い掛けているのは藤野の方なのかも知れません。

 電話を終えて、傍のパソコンの画面に視線を落とした藤野の眼差しに、ニュースが飛び込んできます。山形県の美術大学に男が侵入し、学生達を襲撃したというものでした。そのニュースを見ると、虫の知らせに突き動かされるように、藤野は京本に電話を掛けます。しかし、電話は繋がりません。次の瞬間母親からの電話が鳴って、電話に出た藤野は持っていたスマホを取り落としてしまいます。

 事件の詳細が知らされ、藤野の連載マンガの休載の告知が画面に映り、京本の遺影が観客に示され、京本の部屋の前に佇む喪服を着た藤野の姿に画面は切り替わります。その間、京本に起こったことに関しての説明的な台詞は一切ありません。ただ淡々とした機械作業のように、僕たち観客の心に京本が通り魔に襲われ亡くなったと言う事実を傷として刻んでいきます。切り替わる画面を観ながら、逃れようもないのは分かっているのに、『そんなはずはない。止めてくれ!』って心の中で叫んでいました。すごい演出だと思います。

もしもの世界

 ここから、映画はクライマックスに進んでいきます。傷心しきった藤野が、京本の部屋の扉の前に佇んでいます。廊下の両側にはあの時と同じようにスケッチブックが山積みにされ、その上に漫画雑誌が乗せられています。藤野は雑誌のページの隙間に、シオリのように挟まれた四コマ漫画を発見します。それは、卒業証書を届けに来た時にドアの隙間から部屋の中に迷い込んでしまったものでした。「出てこないで」という台詞で始まり「出てこい、出てこい」という台詞が続き、京本の骸骨で終わる四コマ漫画です。そして藤野は、その漫画を読んだ京本が引き篭もりから外の世界へ飛び出し、大学に通い、結果的に通り魔に襲われ命を奪われてしまったと考えます。つまり、藤野が漫画を描かず、京本が引き籠ったままであれば、彼女は死なずに済んだと考えたのです。

 猛烈な自責の念に苛まれ、冷静を失った藤野は泣き崩れながら、「なんで描いたんだろう……。京本を部屋から出さなきゃ、死ぬことなんてなかったのに。京本死んだの私のせいだ。私のせいだ。描かなきゃよかった。漫画なんて描いても何も役に立たないのに……」と言って四コマ漫画を破くのです。この『なんで描いたんだろう』という問いと,同じような問いが別なシーンでも繰り返されています。回想シーンだったと思うのですが、「だいたい漫画ってさぁ、私描くのまったく好きじゃないんだよね。楽しくないし面倒臭いし、地味だし」と言った藤野に対して、京本が「じゃあ、藤野ちゃんは何で描いてるの?」のと聞きます。

 この映画の中で、執拗に繰り返されるカットがあります。物語りの冒頭からエンディングまでそれは幾度となく取り上げられる、作業机に向き合い寡黙に漫画を描き続けるシーンです。その時点では、評価されるかも、良い作品になるのかもわからない報われない作業が延々と繰り返されるのです。これが藤野の言う「だいたい漫画ってさぁ、私描くのまったく好きじゃないんだよね。楽しくないし面倒臭いし、地味だし」と言う作業であり、「漫画なんて描いても何も役に立たないのに……」という絶望の原因です。それでも描き続けていることへの素直な疑問が、京本の言った「じゃあ、藤野ちゃんは何で描いてるの?」という言葉であり、藤野が「なんで描いたんだろう?」という自問です。

 しかしながら、映画の中で藤野がその問いに答えを語ることはありません。その時点で、藤野は答えを見付けてはいないのです。つまり、その答えは僕たち観客が、この映画の中から見付け出さなければいけないのです。そして、この問いに対する答えこそが、この映画のテーマなのです。

 漫画を描くことに絶望した藤野は、手に持っていた四コマ漫画をビリビリと破きます。破かれた破片の一枚、『出てこないで、出てこないで』と書かれた一コマ目の紙が、最初の時と同じようにドアの隙間から、今度は京本の部屋に入っていきます。部屋の中にいた小学六年生の京本が、その紙を拾い上げます。ドアの外では返事のない廊下に卒業証を置いた藤野が、その場から立ち去っていきます。玄関チャイムが鳴っても、京本は紙に書かれた『出てこないで』という言葉の通り息を殺して、部屋に身を隠すのです。

 この世界で、藤野は四コマ漫画を描かず、京本の手元にはどこから来たのかも分からない四コマ漫画の一コマ目だけが残ったのです。そうなのです、この世界は藤野と京本が出会わず、外の世界に出ることのなかった『もしも……』の世界なのです。そして、京本はどこからともなく訪れた一コマ目の紙を確認すると『幽霊』だと言うのです。この『もしも』という幻の世界からすると、現実の世界の方が『幽霊』という非現実の世界であり、影響力という意味では両方の世界に大した違いはないように思えるのです。

 その世界でも京本は引き篭もりから抜け出し、現実と同じ美術大学に通っているのです。そして、こちらの世界でも、現実の世界と同じように通り魔による犯行が発生してしまいす。藤野が京本を外の世界に連れ出さなくても、結局京本は通り魔に襲われることになるのでした。つまり、京本が通り魔に襲われたのは、藤野が外に連れ出したからではなかったのです。ただ、この世界と現実の世界が違ったのは、ツルハシを振り上げて男が京本に襲い掛かろうとした時、すんでのところで何者かが助けに入り男を倒してしまうことです。男の犯行は阻まれ、この世界の京本が命を落とすことはありませんでした。そして、その京本の命を救った人物が、この世界の藤野だったのです。京本と出会わなかった藤野は漫画を描くことなく、空手を習っていたのです。

 救急車で搬送される間際の藤野に、京本は改めて感謝を伝えるために電話番号を尋ねます。その時京本は自分を助けてくれた人物が、小学校の時の学年新聞に漫画を掲載していた藤野であることを知るのです。京本は自分が藤野の漫画のファンであったことを伝え、何故描くのを止めてしまったのかと尋ねます。その京本の問いに、藤野は明るく「最近また描き始めたよ。連載できたらアシスタントになってね」と伝えます。その誘いに、京本は満ち足りた表情を浮かべるのでした。事件現場の学校から帰宅すると、机に座り,クリアファイルに保管していた藤野の書いた四コマ漫画を読み、自分でも新しく四コマ漫画を描いてみるのです。描き上げた四コマ漫画は不意に吹き込んだ窓からの風に煽られ、ドアの隙間に滑り込み、現実の世界で屈み込み、項垂れていた藤野の元に届くのです。そのドアは幻と現実を仕切る結界で、隙間は通路のような役割をしているのです。

愛するもののために

 その四コマ漫画を拾い上げ、藤野は目を通します。その漫画は『もしも』の世界で起こったことを藤野の元に運びます。一コマ目には通り魔に襲われようとする京本。二コマ目には助けに入る藤野。三コマ目には藤野によって京本が助けられた事実。四コマ目には別れを告げると颯爽と立ち去る藤野。ただ、その背中には犯行に使われたツルハシが突き刺さっているというものでした。読み終わった藤野は、あたかも京本の気配を追うように思わずドアを開けると部屋の中に飛び込みます。部屋の中には、京本の藤野に対する想いが溢れていました。一緒に過ごした頃のいくつもの思い出、藤野の連載していていた漫画は全巻複数冊集められ、壁には初めて出会ったときに藤野がサインしたドテラが飾られていました。二人が別々の人生を歩み始めてからも、京本の心は藤野と共にあり、藤野が漫画を描くという行為を応援し続けていたのです。

 その時、藤野は漫画を描く意義を強く感じただろうと思います。自分の作品を愛し、応援し、期待してくれる誰かのために描く。その想いは確かに『じゃあ,藤野ちゃんは何で漫画を描いてるの?』という京本の疑問に対する答えの一つなのだと思います。ただ、その想いは京本と初めて出会ったとき、情熱的にファンであることを告げられたときとそう変わるものではありません。違いは、ファンである誰かを、藤野も強く愛しているところです。確かに、愛してくれる誰かのために描くという気持ちは、愛している誰かのために描くという気持ちへ昇華していると言えます。ただ、答えはそれだけなのでしょうか。確かにそれは大切な答えなのですが、それでは小学生の時に感じた想いの上位互換に過ぎないようにも思えます。

背中を見て

 ここで『ルックバック』というタイトルに込められた意味を考えたいと思います。『ルックバック』というタイトルには『振り返る』と意味と『背中を見る』という意味が込められていると言われています。『振り返る』と言う意味でのルックバックは、『もしもの世界』で過去に戻り、やり直したことで、映画の中でも十分に機能し意味を汲み取ることができます。

 それでは『背中を見る』という意味はどうでしょうか。確かに映画の中では藤野が「あたしの背中を見るんだな」と言うシーンがあります。しかし、この言葉は後に「あたしについてくれば、ぜんぶ上手くいくんだよ」という藤野の誘いを「一人の力で生きてみたい」と京本が断ることで否定されます。京本は藤野の背中を見ながら生きることを拒否しているのです。「あたしの背中を見るんだな」という言葉は、作者によって仕組まれたミスリードではないのかとさえ思えます。

 それでは他に『背中を見る』に当たる部分はないのでしょうか。カタカナ英語のルックバックを、英語にするとLook back、つまり命令文です。日本語に直訳するなら、『背中を見ろ』とか『背中を見て』となるはずです。それに当たるような言葉は出てきているのでしょうか。実は、まったく同じ言葉がこの映画の中に出てくるのです。それはもしもの世界で京本が描いた四コマ漫画のタイトルです。ドアの隙間から藤野の元に届いた四コマ漫画が『背中を見て』というタイトルだったのです。その四コマ漫画に書き込まれている背中は藤野の背中だけです。そして、通り魔を倒して颯爽と立ち去るその背中には犯行に使われたシャベルが深々と突き刺さっているのです。

 ここで、もう一度通り魔事件に関して考えたいと思います。この事件は、京都アニメーション放火殺人事件を象徴しています。モデルにしているというようなものではなく、象徴していると言って良いと思います。アニメの中で起こった通り魔殺人事件は、ある意味で京都アニメーション放火殺人事件のことなのです。映画の特典に付いてくるネーム本の中では、京本の名前は『野々瀬』です。着想段階から、作品になるまでの間に『野々瀬』という名前は『京本』へ変更されています。この変更の意図は,名前に京都アニメーションの文字を一字入れることによって、京本が京都アニメーション放火殺人事件の被害者を象徴していることをより直接的に伝えたかったからなのではないでしょうか。そういう意味では『京本』と言う名前はアナグラムなのです。京本と言う名前が一種のアナグラムであるのなら、主人公の藤野と言う名前は何を象徴しているのでしょうか。ネーム本の中では『三船』だった名前が『藤野』へと変えられています。それは作者である『藤本タツキ』を象徴しているのです。

 作者の藤本は、京都アニメーション放火殺人事件に衝撃を受けたのだと思います。自分と同じ立場にある若いクリエイター達が、理不尽に命を奪われたのです。彼らは死なねばならないようなことをしたわけではありません。ただ、コツコツと、藤野や京本がそうであったように机に向き合っていただけなのです。とても受け止め切れるものではありません。その心の傷が背中に刺さったツルハシの意味なのかも知れません。

 ただ、やはりそれだけなのかという疑念は残ります。最後のシーンで、漫画を描くことを再開する藤野は、作業机の前のガラス窓に京本の描いた四コマ漫画を貼り付けてから作業に入ります。その漫画はもちろん藤野が通り魔の男を倒し、背中にツルハシの刺さったまま去っていく『もしもの世界』から届いた漫画です。その四コマ漫画には「描かなきゃよかった。漫画なんて描いても何の役にもたたないのに……」と言った藤野に漫画を描く行為を再開させるだけの意味があるのです。つまり、「じゃあ、藤野ちゃんは何で描いてるの?」という疑問に対する直接的な答えにもなっているはずなのです。やはり、『ルックバック』というタイトルは、答えに辿り着くための、作者からの指示なのかも知れません。

永遠であるために

 京本の描いた四コマ漫画の中で、京都アニメーションの事件の被害者を象徴する京本は被害を受けてはいません。ツルハシが刺さり被害を受けたのは助けに入った藤野の方なのです。つまり、藤野は京本の身代わりになっているのです。藤野が身代わりになることで、京本は死ななくて済むのです。そして映画の中における現実の視点でも藤野は身代わりになっているのかも知れません。藤野が京本の部屋から立ち去る際に、ドアに向かって振り返った瞬間でした。一瞬のことなので僕の見間違いだったのかも知れませんが、藤野が着ている喪服の背中に違和感を感じました。喪服が破れているように感じたのです。現実の世界でもツルハシは刺さり、藤野は京本の身代わりになったのではないのでしょうか。

 それでは、現実の世界での『身代わりになる』という行為は具体的に何を指しているのでしょうか。それは漫画を描くという行為そのものです。京本の代わりに漫画を描き続けることによって、京本は死ぬことがないのです。これはクリエイターにとっての根元的な衝動と言っても良いのかも知れません。クリエイターにとって、創作することは生きることそのものです。そして、その生きること、つまり作品を生み出すことは永遠性の獲得でもあります。自分が死んでも作品は死にません。作品は、作者の命を超えるのです。だからこそ、藤野は自分が身代わりになって、京本の命を引き継ぐために、京本の描いた四コマ漫画をガラスに貼ったのではないのでしょうか。これから先の藤野が漫画を描くと言う行為は、きっと京本との共同作業になるのだろうと思います。ある意味、二人は共に生き続けるのです。

 そして、厳密に言えば、クリエイターでない人間などは、この世界に存在することなないのです。人は生きている以上、多かれ少なかれ何かを創造するものなのですから。

ルックバック。そして、自分を振り返る

 とまあ、ここまでが『ルックバック』を観た後の、僕なりの解説というか感想です。とっても素晴らしい映画でした。観ている間何度も泣いたし、観終わってからもこの記事を書きながら何度も思い出しては泣きました。こんな素晴らしい作品を生み出してくれた藤木タツキ先生と押山清高監督、そしてこの作品に携わってくれたたすべてのスタッフには感謝しかありません。この作品の素晴らしさを一人でも多くの人と分かち合いたいと感じます。

 ただ僕にとっては、単なる感動作というわけではないのです。ある意味、自問と自責の作品でもあります。僕も小説などを書いています。そういった意味ではクリエイターの端くれと言って良いのかも知れません。だからこそ、この映画を見終わった後、『じゃあ、自分は何で書いているのか?』と問い正さない訳にはいかなくなるのです。そして、僕は自分のためだけに書いているんじゃないのかと思うわけです。それは、京本と出会う前の藤野か、自分勝手な妄想を膨らまし、京本を襲ったクリエイター崩れの通り魔の男と同じです。そう思うと、自分自身が恐ろしくなります。

 もし僕が京本と出会っていたなら、僕の人生はどうなっていただろう。僕の作品はどう変わっていたのだろうと、今更やり直せない過去に鬱々とするわけです。ただ、そのことはこの映画の評価を下げるものではありません。良い大人を、それほど真剣に自分と向き合わせてしまうほど、この映画は素晴らしく、そして影響力を持つということなのです。

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