『私はいない』と言うけれど、天上天下唯我独尊

スピリチュアル

 スピリチュアル、特にノンデュアリティ界隈の人は、『私はいない』としきりに言います。それが彼らの主張の要なのだからだと思います。彼らの主張がどう言ったものなのかは以前にも記事として書いてありますが、ここにもざっくりと書いておきます。

ノンデュアリティの主張

 二つに分離されているものは存在せず、唯一全体だけが存在している。そして、その全体は言葉によって説明できるようなものではない、ないしは言葉が分離を生む原因でもあるため説明するべきでもなく、結果、名前を付けれず『それ』と呼ばれる。発信する人によって若干の違いはあるものの、だいたい前提としてピックアップするなら、こんなとこだと思います。そして、ここら辺までは、まあ理解と言うか共感できる。

 しかし、彼らは『それ』しかないから、『私はいない』と言います。『私』が『それ』に押し出されちゃった感じです。それに関しても、物は言いようだから、二百歩ぐらい譲れば理解することはできるでしょう。ただ、彼らの多くは、『私がいないから、苦しみはない』と言うわけです。ここに来て、僕は『はぁ?』と思うのです。

 もう少しノンデュアリティ界隈の人々の意見をまとめておくと、人生に苦しみを感じている人に『私はいない。だから私が感じている苦しみも存在しない』と言ったり、死による自己の喪失に怯える人に『私は生まれてもいないし、死にもしない。何故なら私はいないから』などと言ったりします。そして、それ以上考えを進めようとすると、『思考はただ沸いているだけ』と言って思考放棄してしまうのです。

 果たして、苦しんでいる人々がそれで救われるのでしょうか。それで救われるとするなら、精神が退行してしまって苦しみすら把握できなくなっているようにしか思えません。事実、ノンデュアリティ界隈の人々は、赤ん坊の心の状態を理想的とすることが多いように思います。赤ん坊には明確な自我ができておらず、物事を二つに分ける分別がないと言うことでノンデュアリティの考え方にマッチするのは分かります。しかし、分別がないのと、分別を超えるのは違うのです。

『それ』とは何か?

 それでは、彼らの言う『それ』とは一体何なのでしょうか? それは言葉に表せない、ないしは表すべきではないからこそ『それ』と呼ばれるのであって、無論十分に説明されている訳ではありません。ただ、『それ』と呼ばれるとき、それは私ではないものであり、表現のニュアンスとして常に他者です。そして、そこには『それ』以外のものが存在しないことによって、私は排除されてしまっています。結果的に、『私はいない』と言うことになり、『苦しむ私はいないのだから、苦しみはない』とか、『私はいないのだから、私は死なない』などと、論理は発展していくことになります。

 彼らの考えを完全に否定するつもりはありません。ただ、一部ボタンの掛け違いとでも言うべき勘違いがあって、それがのちに発展する論理にも影響を与えているように思えます。それでは、そのボタンの掛け違いは、どの時点で起こったのでしょうか。もちろん、『それ』を私ではない他者、認識する上での客体として扱っているところからです。

 ノンデュアリティ、つまり二つに分かれる分離がない状態を是としている訳ですから、『それ』が客体としてだけ認識されている状態は、そもそもおかしいのです。客体として見なすのであれば、同時に主体としても見なさなければならないのです。つまり、『それ』を他者と見なすのであれば、『それ』を『私』と見なしても何ら問題はないはずです。

ところで、天上天下唯我独尊

 ところで、先日、ネパールのルンビニという村を訪れました。ルンビニはとても小さな村ですが、ある事実によって世界的に有名です。その事実とは、遥か昔、お釈迦様がこの場所で生まれたということです。

 お釈迦様は他の神話的英雄の例にもれず、特殊な誕生の仕方をしています。お母様の麻耶夫人の右脇の下から生まれた赤ん坊のお釈迦様はそのまま七歩歩くと、右手で天を差し左手で地を差して『天上天下唯我独尊』と言ったとされています。その時の様子を象った仏像は誕生仏と呼ばれ、舞台となったルンビニの至る所に祀られています。

 お釈迦様がルンビニで生まれたというのは歴史的事実ですが、脇の下から生まれ、七歩歩いて『天上天下唯我独尊』と言ったというエピソードは伝説であり、さすがに史実ではありません。ただ、時として伝説が史実よりも価値を持つのも事実です。

天上天下唯我独尊の『我』って何だ?

 それでは、『天上天下唯我独尊』という言葉は、どう言った意味を持つのでしょうか。文字通りに読めば『すべての世界の中で、唯一私だけが尊い』という意味です。しかし、この言葉の解釈は多くの人々により検討され、いまだ諸説が存在します。日本では、『この世の全ての人が、私を持っているんだから、みんなが素晴らしいんだよ』と言われることが多いかと思います。協調性を重んじる村社会的な日本には受け入れられ易い解釈だなって思います。

 以前テレビの番組で、瀬戸内寂聴が「お釈迦様は、自分だけが尊いなんて思い上がったことをいう訳がありません。すべての人が私を持っているのだから、みんなが素晴らしい存在であるとおっしゃっているんですね」などと言っていました。それを聞いて、僕は『お釈迦様に聞いたのかよ?』って思ったものです。

 僕個人の見解とすれば、『そんなの言葉通りだろう』と思うのです。つまり、『すべての世界の中で、唯一私だけが尊い』と言うことだろうと思うのです。ただ、多くの人が思い上がった言葉のように感じてしまうのは、ここで使われる『私』の意味を把握し切れていないからだと思っています。ここで使われている『私』を釈迦という個人だと限定して理解しているから、思い上がっているなどと言う感想が生まれることになるのです。

 では、天上天下唯我独尊と言うときの『我』、つまり『私』とは何をさしているのか? それは、ずばり真我です。そして、真我はアートマンと言い換えることもできます。さらに、アートマンは宇宙の根本原理としてのプラフマンと同一であり、存在するもののすべてであり、比類するものもなく、それは最も素晴らしいものなのです。

私しかいない

 そして、この実感は、主体と客体、自と他など、相反する二元性が超越的に結合された状態、つまり一元的状態においてもたらされます。そこには、アートマンがあるだけです。これをノンデュアリティの人達の言う『それ』と置き換えてみて下さい。『私はいない』ではなく、『私しかいない』のです。

 そうであるなら、前提が変わったことにより、それに続く論理も自ずと変わってきます。『苦しむ私はいないのだから、苦しみはない』とか、『私はいないのだから、私は死なない』と言うのではなく、死も苦しみもなく、唯一、尊い真我だけがある。そして、それは貴方でもあるのです。

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